書評日記 第26冊
地平線のパロール 寺山修司
河出文庫

 さて、ホームページの改変も終えたことだし、「チャップリンの移民」も見終わったことでだし、今日の「書評日記」を書こう。
 そーいえば、私のページにはリンクが少ない。別に人のを見ないというわけではないのだけど。今日、ばうわうさんの日記を読んで(いろいろ異論があるのかもしれないけど、結構おもしろいんで、時々みている)気が付いたのだけど、『インターネット初心者に対しておもしろそうなところにリンクを貼っておくことにしている。』ってのは共感が持てる。私も最初のころは、リンク集のないページに突き当たって途方に暮れたものだ。(それ以上どこにもいけない、ってことは「終着駅」みたいで困る)なるほどなるほど、ってんでリンク集を作りました。でも、ばうわうさんへのリンクはまだ無い、ははは。一応、私の主義としてメールだしてからということにしているので。

 というわけで、今日の一冊は寺山修司著「地平線のパロール」を送ろう。河出文庫のこのシリーズは7冊程度でているはずだ。じつのところ、寺山修司は演劇や映画の方で有名であって、この著作もエッセー中心のものになっているから、ほんとうのところは映画をみてから(演劇の方は亡くなっているので見るに見られず)読むほうがいいのかもしれない。私は、レンタルビデオを借りないので、寺山修司の映画のビデオ(「ケチャップ帝国」・・・だったけ、題名しか知らない)が出ているのかわからないけど、あるんだったら、うん、見たいな。ちなみに映画館でもちょっとマイナーなところでは特集を組んで上映しているので、それをチェックするのもいいかもしれない。
 「新・書を捨てよ、町へ出よう」が最初に読んだ本なのだけどダリに逢う場面、そしてダリの言葉『言葉(哲学)は口から屁である』に異様な共感を覚えた。今ごろになって出会うのがちょっと遅かったかもしれないが、・・・遅いってことは、(私が)死んで以後に使う言葉だから、と思い直し、2、3冊立て続けに読んだ。
 余談だけど、一人の作家を立て続けに読むのは精神的によろしくない。なぜならば、作家は自分にとってあくまで他人であるにもかかわらず、まるで自分の思いすべてを共振させてしまうような錯覚に陥ってしまうためである。だから、すこしずつ読むべきだし、そうでないときちんとその著者の評価(自分なりの言葉で理解すること、かつ、自分の血肉とすること)ができないし、消化不良をおこすことでその著者を矮小に考えてしまうおそれがある。だから、私が寺山修司を読み続けた時期は寺山修司をまったく理解していない時期だった。ほんとうは表紙のスキャナをとったのがこの「書評日記」の最初の方だったにも関わらず、今やっと彼のエッセー(特にエッセーは時間をおくべきだと思う。)を紹介する(かつ私なりに理解する)に至った理由はここにある。

 前文の自白は、わたしなりの本の読み方に対する考え方と「続・書を捨てよ」を読んで思って、かみくだいた、その感想である。たぶん、読んだばっかりだともうすこし過激な言葉になったはずのものである。

 だんだん書評っぽくもなく、日記っぽくもなくなってきたけど、ん、なんだなぁ、「よろずや講談」みたいになっちゃったら嫌だなぁ。
 わたしの場合、「本」と「漫画」と「コンピータ」の3本立て(なんか、ポルノ映画みたいだけど)で人生やっているから、多少「本」の方がぽしゃっても他のところで立て直しがきくし・・・。(ま、漫画の方はかなり、ぺしゃんこになっているけど。)
 まぁ、とりあえず、これ読んでちったぁ人生に悩んでおくれ。

 蛇足だけど、「幻想図書館」の解説は、柳瀬尚紀(「突然変異幻語対談」の対談相手、かつ、「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の訳者の一人)である。んー、わたしの読むジャンルは狭いのかもしれない。

update: 1996/06/23
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