書評日記 第35冊
ダンヌンツィオに夢中 筒井康隆
中公文庫

 『嘘』は、いい。すべてが虚構になれる。自らを虚構化してしまうことで、すべてがはっきり見えることがある。筒井康隆を読んでいるのにこれを忘れてしまう(忘れかけるところだった。)とは、ツツイストとして、ちょっと情けない。しばし、反省。

 一行だけ反省したので、今日の一冊は、大幅に予定を変えて、筒井康隆著「ダンヌンツィオに夢中」(中公文庫)を紹介しよう。
 ほんとうは、100冊・・・は無理にしても50冊ぐらいまでは、別々の作家でいこうとおもったのだけど、スキャナの調子が悪くて手元にあるスキャナ済みの画像を使わざるを得なかったのである。なぜ、筒井康隆著作の本が既に取り込み済みであったのかは、神でもわかるまい、ははははは・・・ってのは、前やったな。
 ダンヌンツィオ、私はこの本を読むまでこの人が誰なんだかわからなかった。しかし、読み終わったあとでもわからない。というのも、裏表紙を引用すると『世紀末イタリア社交界の寵児にして、救国の英雄詩人ダンヌンツィオ』に三島由紀夫を憧れていたというエッセーなのであるが、さて、はて、やっぱりわからない。というのもこの本の最初のエッセー、三島由紀夫のことは、『彼』という三人称を使うだけで、確か最後まで『彼』で押し通してある。(今確かめると、『死後十八年、「彼」はいまだに大きな話題の主であり続け』とあるから、『彼』に統一してあると思える。)だから、初めてこの「ダンヌンツィオに」を読む方にはネタばらしになってしまうわけなんだが・・・、私以外の読者は注意深いだろうから、裏表紙を読んでから「彼」が三島由紀夫であることを確認しつつ読み進められるであろうと合点した上で、ここに書いても、よし、としておこう(ちょっと勝手だけど)。ちなみに、私が、「彼」が三島であることに気が付いたのは、『愛国』という言葉が出てから以降だったような気がする。

 詳しいことは省くけれども(「ダンヌンツィオに」はエッセー集だから、この表題作は、50ページちょっとしかないので立ち読みでも十分・・・って、勧めるなよ、おい。)、先に示した通り、ダンヌンツィオはイタリアの英雄である。だから、一言ごとに国民が、おお、と反応してくれる。しかし、彼に憧れる『彼』は、しがない(しかも売れない)小説家で何を云ったって、何をしたって、群集はぴくりとも動いてくれない。これは、昭和45年の『彼』の演説の中継(私は、すでに生まれていたことを今で初めて知った。)そして割腹自殺の行為を筒井康隆が克明に記すことで、その雰囲気を味わうことができる。で、結局、この事実が世界にニッポンのミシマを川端康成や井伏鱒二よりも有名にしてしまった。
 このエッセーの最後に、『ダンヌンツィオは(略)長生きしたことを悔やみ』とある。確かに、英雄に長生きは似合わない。どこかのエッセーに(これも筒井康隆であったかもしれない。)『川端康成は生き恥をさらす必要はなかった。ある特定の政党に荷担するようなことはして欲しくなかった。』とあったのを覚えている。たしか、川端康成はその事実以降、世間の評判を落としたような記憶がある・・・が、それはさだかではない。

 さて、表題のエッセーだけを紹介してもしかたがないので、ちょっと目次からつまみ喰い。
 「美琴姫様騒動始末を推す」・「文房具」・「作者の朗読について」・「私も投稿マニアだった」なんてのがいいかもしれない。あとは「新しい自己照射としての試み」として大江健三郎を、「澁澤文学私観」、「藤子不二雄に感謝」など、ちょっとした解説があるので、結構お買い得(解読・会読・買い何処・かいい?どこ)な本かもしれない。

 最後にちょこっと書いておこうと思っては見たけれど、
身丈のほどを知らされて、
三桁のほどしかないこと知らされて、
見たか聞いたか聞いたか見たか、
三鷹の山の三度笠、
かさかさ置き傘くもり傘、
もりもりもりもりゆもりやもりいもりどもり、
くるくるぱっぱのぱらぱらぱ、
すらすららっぱのぱらぱらぱ、
ばらばらはらはらそらそらわらわら、
うらうらおらおらけらけらこらこら、
すったらぬったらけったら何処いったら、
やったらいったらよったらすってんたらたらはなぢだらだら、
糞味噌泥泥、蟹味噌濡れ濡れ
鼻汁愚図愚図、耳糞屡屡屡屡
るんぱっぱるんぱっぱるんぱっぱるんぱっぱ、
それでは、これでは、さすれば、今日はこれでおしまい!

update: 1996/07/02
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