書評日記 第44冊
当り屋ケンちゃん 野田秀樹
新潮文庫

 我が弟君の内々定が決定。7月1日より就職活動解禁のハズなのに、なぜにこんなに早く、という疑問は、不問にしておく。所詮、そんなものなのよ、身内というものは。
 そういえば、とある米国大統領は「公立高校はいいところだ。」と発言した直後、彼の娘を私立学校に入学させたことがあった。嗚呼、そんなものなのよ、身内というものは。でも、だったら、なにも公共電波を使って公言しなくてもいいんじゃないの?

 そうそう、俺は、共産党員とか、右翼団体とかには所属しておりません。念のため。どうやら(前調査の)電話がかかってきたらしい。それを聞いてドキっとした俺。俺はアナーキストなのよ。団体とかに所属しなくなったのよ。家族ページとか作ろうと思ってたけど、迷惑がかかりそうなんでやめることにしました。そうじゃないと、自由にならないし、なれないし・・・。

 さてと、ほんとうは、「ハッカーの倫理」(蕎麦屋の旦那、度々申し訳ない。でも、目立つのよ。「プロ」のプログラマをやっている俺には。)と「コンポーネント化」について、ちょっと(というか長々と)書こうと思ったんだけど、酔ってるんでパス。素面&昼間に書きます。偽善者と嘆いている君に送りたいし、再開している日記にも送りたい。俺がなんで、「copyleft」なんてものを掲げているのか、また、フリーというものにこだわるのか、きちんと(自分のために)書き残しておこうと思う。あ、やっぱり、酔ってるわ。この続きは、また後日。

 さて、本日の一冊(とは、云えもう午前2時だ。)は、野田秀樹著「当り屋ケンちゃん」(新潮文庫)である。野田さんは、脚本家である。だから、野田秀樹の名を知ったのは、教育TVでやっていた、とある演劇であった。とあるというのは、題名を完全に忘れてしまったので、「とある」としかいいようがない。ただ、ラストシーンで、日本兵を頂点にして囲み、まわりの人々が手を差し伸べている場面が印象的であった。内容の方はぜんぜん覚えていないのだけれど、なぜか印象は残っている、なぜか・・・。
 さて、俺の印象はどっかにいってもらって、本の紹介。(今、この本の後書きをみたのだが、劇団名は「夢の遊民社」である。やはり、教育TVで時々やっているので、見るといいかもしれない。そうそう、「惑星ビスタチオ」とか「なんたら新幹線」(名前がうろおぼえ)なんて劇団が好きだ。こちらは、民放TVの深夜に時々やっている。機会があれば(かつ「縁」があれば)見られると思う。)この題名であるケンちゃん、本のなかにはちっとも出てこない。それは、本の中にも書いてあるのだが・・・。
 ま、それはいいとして、内容をちょっと説明すると、「当り屋専門学校ってのがあって、当り屋のプロを育てる学校なのだが、その中で先生が云うには『幻の少年カスパー・ハウザーを見た日、あんたは当り屋をやめなあきまへん』。当り屋の創始とも云われる少年カスパー・ハウザーと当り屋圭一郎のおはなしである」。あいかわらず、俺の書評は「ちょっと」しか説明がないので、これを読んでこの本を買おうとか読もうとか思う諸君諸嬢はおられないと思うのだが、ま、いわゆる、「純文学」ってことで(裏表紙にも書いてあるし。)いいかもしれない。
 「純文学」って分野がいまだにあるのか、それとも、こういうものこそを「純文学」と称するのかよくわからないけど、心にじーんとくる(云ってって恥ずかしいけど)ものなのは確か。灰谷健三郎の「兎の眼」や、干刈あがたの「ウッホッホ探検隊」、著者を忘れてしまったが「ふたりのイーダ」なんてのがこれにあたると思う。

 うーん、自分で云うのもなんだけど(人にも云われたけど)「無節操」な俺の書評日記。でも、さ、読み返すと解るけど(俺、自分の日記を何度も読み返している。だって、面白いんだもの。)なんか一本筋が通ってるような気がしない?

 ああ、こんなこと書いている俺。なにやってんだか。
 夜もかなり更けて参りました、では、おやすみなさい、また明日。

update: 1996/07/12
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