俺というのは「俺」の一人称。「私」と云ったところで俺も使っていたわけだから、女性とは
かぎらない。尤も、「僕」といったところで男性とも限らない。「ワシ」なんて使っているひとは、広島かどっかの人かもしれないし、「あっし」なんて使っているのは、そんなにいないと思う。「わたし」とひらがなで書くと優しく見えるけど、「わたくし」と書くと改まった感じになる。「あちき」なんてのを使うと、浮世雲みたいでイイ感じ。自分のことを「自分」と云うと、軍隊みたいだが、関西では相手のことを「自分」と云うから、自分が大阪にいた時分は「自分、自分のことどう思ってんねん。」なぞという、よくわからない人が聞けば、ますますよくわからない会話に出会える。そうそう、自らのことを「名前」で呼ぶ人もいる。不思議なことに、一人称があらわれない文章もある。やっぱり、興味深い世界であることには違いない。
一人称をネタに日記を毎日書いている人がいないかなあ、と思ってちょっと一人称日記風(?)に書いてみました。(どうやら、まだまだ、続けるらしい。)
さて、今日の一冊は細野不二彦の「あどりぶシネ倶楽部」(小学館)。この漫画は細野さんの「BLOW UP!」と同様、彼の起死回生の漫画かもしれない。というのも、この作品は、細野さんが、「さすがの猿飛」で一躍有名になり、「I’m ナム」で地に落ちてしてしまう間、そして青年漫画誌(=少年漫画を読んでいた世代が、漫画を読みつづけるための雑誌)で「ギャラリーフェイク」、「太郎」、「バットマン」を描くに至る前の一つの布石ではないかと思える作品なのである。ま、こんなことを書いてしまうと、俺がまるで、細野不二彦マニアに見えるのだが、事実そうなのであるのだから仕方が無い。「ガンモ」以外は全て所蔵してあるのだから、「マニア」なのよ、うん。(うーむ、やっぱり、あのとき買っておけばよかった。)
「あどりぶ」、これは大学生が8ミリ映画を撮るお話である。漫画の中でも書いてあるのだけれど、「このビデオ全盛の時代、8ミリ映画をしこしこやっているやつ」は、どう考えたって地味。この世の中、世紀末に向かってまっしぐらという時代に、ぼそぼそやってるのはちょっと割に合わないかもしれないけれど、まあ、それほど意味がないことはないと思う。俺の書評日記、どっちかっつーと、学生の方に読んでいただきたい。(うー、せーがくドモは、もう夏休みなんだよなあ。ま、俺もせーがくの時は、ずーっと夏休みみたいな生活をしていたから、これから社会への御奉仕することにやぶさかではないのだけれど。)あいにく、俺が学生時代にやったことと云えば、漫画をちょろっとやったことと、本をばかすか読んだこと、あとだらだらバイトなんぞをしていた。あ、コンピータもしこしこやっていた。今は、これで飯を喰っている。ま、その余力というか、なんというか、そういうもので、こういった地味な日記を書けるというのもなんか奇妙な話である。
毎日いろんなことがあるかもしれないけど、社会人になれば、家→会社→家、でしかない生活が始まる。(俺のバヤイ、ここに「本屋」ってのがはさまるけど。)この「往復運動」をつまらなく思うか、それとも楽しむ(または快感)かは、個人の問題であるし、ま、俺はそれなりに楽しいし、毎日一冊ずつ選んでいるというのはなかなか(じじむさいけど)楽しい作業である。そういう意味では、ネタはつきない。
ほらな、だから俺が「サラリーマン」になっちまうと「やばい」と云ったのだ。こういう生活にどっぷり浸かってしまうのは、やっぱりやばい。でも、ふと思うのは「悲の器」の一場面、就職活動で、面接に落ちた学生と教授の会話で、
「それで、あなたはなんと言ったのですか?」
「共産党をと言いました。」
「活動をしたいのであれば、まずその会社に入ることが先決ではないですか?」
の部分。
いや、別に俺がなにをやりたいかという訳でもないのだが、兎も角、組み込まれてみること、という考えも大切かもしれない。
あー、じじむさいことは止めよう。(でも、早く頑固じじいにはなりたい。)
そうそう、久々にお絵描きをしたのだ。玄関(俺のホームページのことね。)から入った清く正しい方はお解りであろうが、ひとの日記リンクでいきなし書評日記に飛んできたり、自動獲得みたいな姑息な手段を用いている輩のために書いておこう。
これだ、これ。