書評日記 第66冊
長英逃亡 吉村昭
新潮文庫

 忘れてはいけない日が、一年に幾日かある。今日は「広島原爆投下記念日」がそうだ。投下した国も投下された国も、また投下しそこなった国、続々開発している国、太平洋の真ん中に落とした国、いろいろあるけど、決して頭の上に落とされて楽しいものではないハズ。
 幸い(?)にして、俺は中学の半ばから高校時代を広島ですごした。よって、原爆記念館にも何度か行ってるし、平和公園のハトの多さにうんざりもしている。その関係からか、広島の学校では「同和教育」が熱心である。小学校時代をすごした大宮でも部落が近くにあることから、同和教育に熱心である。そこで暮らしている人には、毎年毎年うんざりさせられる行事なのかもしれないが(でも、骨身にしみていることは確か。あと、広島では「被爆」に関してはタブーに近い。)、転校生の俺にとっては、新鮮(?)な体験であり、外部の者として客観的に見ることができた。
 余談ではあるが、今年の児童声明文、二人とも転校生だ。日本の文学にやっきなのは、非日本人である事実と関係が深いのかもしれない。

 はい。今日の書きたいことは、これでおしまい。
 船井、長く続けるということはこういうことなのだ。長く続けなくちゃ、こういうことを書いても見向きもされないし、途中でやめたならば、こういうことが人の目に触れることもなくなる。
 そうそう、「幾日」と書いたが、その一つに俺の誕生日(5月2日)がある。うへー、ずいぶん先の話なのか、すぐなのか。それまで、日記を書きつづけている人が何人いるものなのか。(俺の予想では「すべて」。なぜなら、やめる理由がそこにないから。)

 さて、本日の一冊は吉村昭の「長英逃亡」(新潮文庫)である。俺にとって、吉村昭という作家は純粋に「作家」でしかない。その逆を例にとれば、筒井康隆や大江健三郎であろうか。つまり、小説として対峙し、小説として終われる作家である。
 実はこの本、読み切っていない。理由は、まあ、単に興味が他に移っただけなんだろうと思う。同じく俺も飽きっぽい性格なのだ。(でも、「しつこい」、なぜかこれが同居している。)
 一応既読の題名をならべると「戦艦武蔵」・「零式戦闘機」・「光る壁画」・「脱出」・「破獄」ぐらいかなあ。司馬遼太郎や松本清張と並び評される作家だと思うのだが、この辺は詳しくない。司馬遼太郎は「国」にこだわった人であった。松本清張は「裏」にこだわった。今、あとがきを見たのだが(基本的に俺は後書きを読まない。知らない作家であれば、その経歴を知りたいがために読むけれど、読了後すぐに解説を読むと、それに流れてしまうのが嫌だから。)彼もデビューは40才らしい。最近、人のデビューの歳ばかり気になる。やっぱり、俺もあせってるのかなあ。でも、もっと焦んなくてはいけない方がいっぱいいるので一安心。

 余談はさておき、「光る壁画」は、脱獄の話だったと思う。ひょっとしたら「破獄」の方だったかもしれない。この生生しい暗さは、開高健の「光る繭」(だったけ?)のベトナムの暗さに通づるものがある。
 大岡昇平もそうだけど、小説家の戦争体験はなかなか興味深い。勿論、やけっぱちになって戦争万歳、天皇陛下万歳を叫んで、銃剣で突進しなかったからこそ、のちにこうして戦争体験小説なるものを提供しているわけだから、当時の一般心理とはちょっと違っているのかもしれないが。
 実は、夢野久作も海外出兵していた時期がある。あの、のんべんだらり者でさえ兵隊にならざるを得なかった日々がそこにある。そして、描かれる小説は、大岡昇平とさほどかわらない。

 吉村昭、まだ(失礼な)、現代の作家であるはず。「ふぉん・しいほるとの娘」が最近出ていたような気がする。これを書いて、また読み始めようかなあ、と思ったが、ほんとうに読むかといえば、それはさだかではない。忘れっぽいので。

update: 1996/08/06
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