書評日記 第97冊
フラニーとゾーイー サリンジャー
新潮文庫

 献血をしてきました。10年ぶりの献血です。10年前、俺がまだ高校生だった頃、献血の動機は、「弟がなんかあったときのため」です。俺も弟君もAB型でして・・・ま、そんなもんです。でも、最初の動機はどうあれ、少なくとも悪いことではないでしょう。

 吉祥寺の赤十字センターなのですが、幾人かの友達関係で来ているとか、カップルで来ている人が多いですね。ひとりで来ると、なんかマニアに見えそうです。俺も、誘われて来たわけだし、きっかけというものは、そういうものかもしれません。
 400ccの成分献血なのですが、ずらっと並んで血を出し入れしている姿は、なんか血液製造工場を見ている感じ、とかいう毒舌を吐きたくなるのは、俺の俺たるゆえん。そう、今は「成分献血」と「全血献血」というのがあります。「全血献血」というのが、200ccだかの血を抜き取って、その血の成分すべてを使うやり方です。ただし、血を抜き取ってしまうから、身体に負担が大きいわけですね。今回、俺がやった「成分献血」というのは、血を一旦抜き取って、その中から、血小板と血漿だけを漉しとる方法です。血を遠心分離にかけて、その上澄みを取り、血沈の方は元の身体に戻すやり方です。
 なんか、「全血献血」の方が、いいような気がするけど、身体の負担を考えると「成分献血」で十分みたい。その辺は、ちょっと知識不足です。ま、その日に元気にお酒飲んだり、レゲエバンドにノってみたり、掃除をしてみたり、できるわけですから、体調はいいみたい。
 そうそう、俺、「成分献血」ってのが、初めてだったので、その、チューブの中を血が流れる様子を見つめて多少貧血ぎみになってしまった。はあ、なんというか、男は血に弱いね、やっぱり。それに、血管が細いのか、最初のひと押しがなかなか出ないわけ。で、担当の看護婦さん、哀れに思ったか「手を暖めましょうか」とかなんとか云って、俺の手を暖めてくれました。あ、決して、あっちの看護婦さんの方が・・・とか、は云いませんでした。うー、でも、ぐっぱやって(力を入れないと出ないのよ、弱っちい俺の血圧)ほどよく流れるようになると、看護婦さんの手は、ホカロンに変わっておりました。はあ、なんともかんとも。

 あ、ここで終わってしまうと、単なる日記ですね。これは書評日記であるので、本の紹介サリンジャーの「フラニーとゾーイー」(新潮文庫)です。これは、献血に誘っていただいた「献血」の方(俺の参照文献にあります)のリクエストです。メールで、リクエストして貰って、俺が「うん」と云えば、読みましょう。はあ、結局、俺の趣味に含まれるわけですが。

 端的に云ってしまえば、「フラニーという信心深い少女を真の意味での『信心』に引き上げるゾーイーという少年の行為」のお話。別に、「宗教」的な意図で汲み取らなくても、自分の行動を「受動的」から「能動的」へという意味で読み解けば、十分ではないか、と俺は思います。ま、欧米の本を読む場合、基礎背景として「キリスト教」を知っておくのは必須ですから、知識としての「キリスト教」は悪くないと思います。俺も多少、その感じですから。
 ただ、この本から得られるものは、もうちょっと一般的な概念ではないかと思います。信仰なり、この世の中で頼れるもの乃至頼れるとされているものなりは、沢山ありますが、頼ってしまう前に、今ひとつ考えて、その対象をきちんと「人物化」すること、ひとつの「人間」とすることを考えるべきではないか、そんな感想が浮かび上がってくる作品です。

 そう、人の家を掃除しました。 自分の部屋も掃除しないのに、人の部屋を掃除するなんて変な感じですけど。どうもね、捨て切れないものが一杯ありすぎたみたい、彼の家には。 がーんと、捨ててあげました。事情の解らない第3者ですから。 これって、大学時代、俺のおかんがやってくれたことなんです。 そーいうことですよ、うん。

update: 1996/09/09
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