書評日記 第170冊
作家になりたい自分にとって非常にありがたい本だった。芝居の前に、新宿の紀伊国屋書店で立ち読みをした。「フルハウス」という書名が目に飛び込んだ。確か、何かの賞を取ったことで覚えていたはずだ。帯には泉鏡花賞をとったことが書いてあった。確か「泉鏡花賞」は女性版の芥川賞ではなかっただろうか。敢えて、「女流」を冠するのも変な話だが、時代はまだその程度なのかもしれない。
「フルハウス」を速読する。しばらく速読なんてしていないので、あまり内容が伝わってこない。まあ、速読なんってものは単に字面を追って内容を把握するだけなので、文章からの情感やら作者の揺れの部分は読み取れない。作者の「語り」に同化して物語を楽しむ場合には「速読」は適していないし、するべきではない。まあ、ざっと内容を掴むぐらいはできるので、それでいいのかもしれないが……。大抵の本はそれで済む。
何かが浮き上がってくる感じがする。干刈あがたの小説のような滑らかさを感じた。
隣にあった「窓のある書店から」を手にとった。待ち合わせの時間が来たので、これは買うことにした。
演劇を見た後、阿佐ヶ谷の家に帰る途中で読む。
初めての作家でエッセー集を買うのは、初めてだった。やはり普通は作品としての「小説」から入る。柳美里は、在日韓国人の戯作家であることこの本から知る。
実は、俺の本棚には女性作家が少ない。まじめに読んだのは、栗本薫と小野不由美ぐらいだろうか。少女漫画は多いのだが、小説の方は少ない。これは、俺の少女趣味を示しているのかもしれないが、まあ、内心では女性作家を馬鹿にしているのかもしれない。
ボードワールの「人間について」を読んでいた。確か、この人も(?)分裂症だったらしい。ユング云うところの「NO.2」を持っている人かもしれない。ただ、文章が支離滅裂なワリに俺には良く解かる。共感できる部分が多い。何故だろうか。
そういえば、文体に関して、むちゃくちゃ言われた。そうそう、あの人達は「作家」というものを相当誤解しているんじゃないか?と思った。「偉い」だの「立派」だのという冠詞がどうして付くのだろうか。ひょっとすると、作家は偉いものだと勘違いしていないだろうか。俺が「医者」になりたい、と母親に言った時に、「金持ち」という冠詞がつけられたと同じ状況ではないだろうか。
柳美里は「泉鏡花賞」を取った。彼女の両親は韓国人だそうだ。彼女はハングル語が出来ない。日本語もたどたどしい。エッセーを読んでも別に難しい言葉が出てくるわけではない。
「フルハウス」は非常に平凡な言葉で書かれていた。
でも、俺は、それを読んで暖かい感じがした。速読であったが、何が伝わってくる感じがした。
彼女が紹介するの言葉に、「小説家とは小説が何たるかを模索する人」というものがあった。
そう、俺も模索している。文章とは何か、俺の伝えたいものは何か、そして俺は何者なのか。それをこうやって言葉にして残しておく。それは日記であったり、エッセーであったり、小説であったりするわけだ。
文章を書くのは「伝える」作業だと思う。何かを伝えたいから書くわけで、その何かとは非常に微妙な問題を含んだものだと思う。
だから、作家から読者へ常に伝わると思うのは間違いではないだろうか。こうやって、普段の文章を書いて、何かを伝えようとしていても、何かが伝わらないのは当然なことなのではないだろうか。そこに「誤解」が生まれるのは仕方が無いことなのではないだろうか。
でも、読者は自分の頭を持っている。作家に縛られない自分の頭でもって、自分で考える。作家の提示した小説の世界で遊びつつ、何かを掴む。
それでいいのかもしれない。俺は演劇を見て泣いた。非常に泣けてきた。それは、俺の経験に非常にマッチしていたからだ。それでいいんだと思う。見た後、非常に疲れた。誰よりも疲れていたと思う。そして、やる気が出た。
小説も同じだと思う。読むという能動的な動作が何かを掴むことに繋がる。だから、伝わらない時もある。伝わる時もある。
だから、俺は、自己賛美でもなく自己批判が甘いわけでもなく、自分の文章に自信を持っていいと思う。
書きたいものがある。だから作家になりたい。それでいいと思う。そんな確信をこの本から俺は得た。
update: 1996/12/16
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