書評日記 第180冊
アルフォンス・ミュシャ作品集 アルフォンス・ミュシャ
三省堂書店
年末といったって、この歳になるとあまり感慨深いわけでもありません。うちでは、母親がちょっと掃除を丁寧にして、正月用のがめ煮を作るぐらいでしょうか。
でも、小学生の頃は、家族4人で大掃除をして、年越しそばを食べて、新年の挨拶を交わし、氷川神社へ初詣でに出かけるのが常でありました。
子供の頃は、そういう行事が一杯あって、両親はきちんきちんとそれに合わせてくれました。
そう、子供にとって、そういうハレの日というのは楽しいものだし、必要不可欠なものだと思う。日々のんべんだらりと過ごすよりも、節目節目を大切にするのは大切なことだと思います。
子供の鋭い感受性を十分に刺激してあげて欲しいものです。
だから、偏食オヤジ殿。おせち料理ぐらい、いいじゃないですか。お正月という気分を際立たせるには一番のものだと思います。黒豆は大嫌いだったけど、年の数だけ食べさせられました。
沖縄の雑煮というのはどんな感じなのでしょうか。
最近では、デパートも1月1日からやっているし、俺が子供の頃の街の閑散とした感じがなくなりました。
当時は、何処へ行ってもシャッターは降りていて、年賀の挨拶の札が貼ってあるのが寂しいというか、それでもそれこそが正月の雰囲気だったような気がします。
この一年を振り返ると……って、あのう、つい最近はじまったものがあるので、振り返りようがありません。
両親は、この半年間の俺の経験を知ったら、どう思うでしょうか。
あまりにも、急激に生き過ぎたというか、急がなければならなかった理由があるような気がするのは、運命に弄ばれるように生きてきてしまった俺だからなのかもしれません。
不幸とか幸福だとか、一体なんなのだろう。と最近思います。
果たして、今年の俺の人生は、不幸だったのか、幸福だったのか。
まあ、今の状態は幸福であるし、先の悩み苦しんだ状態も幸福だったのかもしれません。少なくとも、自分の中の何か埋めるものをこれほど真剣に求めたことがありませんでした。
創造性・独創性という単語が好きです。そして、俺はそうあらんとしたし、大学時代の夢に敗れてしまった後も、それを求めてきました。
自らの独創性が、社会的に「プロ」となり得るだけの価値を持っているかどうかは、社会がそれを求めているか否かに掛かっています。それが、漫画家であれ、プログラマであれ、小説家であれ、どんな職業であれ、社会が求めるものと自らの独創性が一致しなければ、金を貰うプロにはなれません。
でもね、傲慢なようですが、俺は現代社会が求めているものを持っていると思っています。
「魂」という言葉を使うと怒りを買うかもしれませんが、俺はそれを持っていると思います。自らの「魂」に耳を傾ける事が如何に大切なことであり、「自由」なことであるかを、俺は知っています。
そう、俺は他のことはどうでもいいのですが、この「魂」だけは譲れないと思っています。「魂」を蔑ろにする者に怒りを感じる、というのが俺の素直な感情であり、「魂」に惹かれるというのが、俺の素直な気持ちです。
アルフォンス・ミュシャの1900年代の作品は、アールヌーヴォーの先駆であり、その女性の魅力を十分に引き出すポップアートだと思っています。
そう、大衆に受け入れられたからこそ、彼はあのような数々の美しい作品を残せたのだと思います。
世紀末、世紀初期には、社会が何らかの変貌を遂げます。
どうやら、俺は、ここ数年が勝負の時のような気がします。
別に俺だけではないのですよ。あなただって、「時流」をうまく掴むことさえすれば、何かを為し得ることが出来ると思っています。
そういう意味で、俺は時代の寵児なのかもしれない、と思うのは俺の傲慢さからでしょうか。
update: 1996/12/31
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