書評日記 第206冊
ファウスト ゲーテ
新潮文庫

 一冊の書に長く耽溺することを今の俺は望まない。だからといって、読み飛ばしをして読んだ気になるのも些か危険である。速読をして、内容の把握、つまりは今の己に必要なもののみを奪いとるのが最初の読み方かもしれない。実際に再読するか否かは、読んだ時の環境と記憶の度によるので文学作品に囚われない。それはドイツの輩出するゲーテでも同じことである。
 ちなみに、トーマス・マン著「魔の山」を平行して読んでいる。同時にハイデガー著「存在と時間」も併読。ドゥルーズ・ガタリ著「差異と反復」は、「存在と…」に押されてしまっているが、富永健一著「社会学講義」に俺は触れつつある。

 以前、第1部の半分でストップしていたらしいことは覚えている。ミルトン著「失楽園」に移った時だったと思う。
 3日で読み終えた時、ゲーテの奏でる想いは俺に沈殿するのだろうか。

 第1部のファウストの恋愛に耽溺するには俺の現状は寂しすぎる。ただ、恋愛について楽しい時を過ごしている時「ファウスト」に溺れることはないと思われる。ならば、何時この部分を読むかと問われれば、溺れるも溺れぬもやはり「今」がその時なのかもしれない。
 メフィストフィートスに操られて村の娘に恋をしてしまうファウストに、自らの行為を重ねてみれば、ただ、恋愛経験をしたかったのか、と過去形になる己を眺められる。
 ただ、どのような経過であれ、結果となった今を鑑みれば良くも悪くも単なる平常の状態が残る。
 熱に浮かされたと言えばそうかもしれないし、ひとつの美を得るに至るのは数は多くないにしろ、唯一ではないはずだ。だが、此処ひとつという想い込みこそが、友人とは違った関係を結ぶに至る障壁を超える唯一の手段なのかもしれない。
 惜しむ(?)らくは、飛ぶような始まりと終わりにただ呆然とするしかない感情を持て余し、人間としての温かい感情を取り戻すには、今ひとつ時間が掛かることである。
 味覚を持たぬ口蓋から、血の匂いのみを味わい、過去の経験を反芻する俺は、人に語るべき言葉を失っている。

 むしろ、第2部の神々の対話に身を委ねる方が楽である。
 「母」というキーワードにびくびくしながら読み進めれば、ファウストの最期にマリアが出てくるのは十分予想できる展開であり、納得がいく。無論、そういう読み方をすれば、の話であるが……。
 ゲーテが得た至高を神話へ模写したのである、と考える俺は、そのような伝わり方をして良しとする術を知らない。つまりは、受としての読み手に徹底すべきなのか、格闘すべき文意が其処にあるのかを知らない。ただ、専門家ではないので、緩やかに受け入れる前者を模したい。

 以下は其れである。

 多くの書がある中で、「ファウスト」を選ぶ理由は俺には無い。将来的な展望として通読するに至ったわけである。それは3日の速読をして、考察は後に譲る態度が其れを示している。
 演劇を模して配役を座して各々に語らせる。美しい合唱は美しい合唱のままに、皇帝の嘆きは皇帝の嘆きのままに受領する。その合間合間に、自らの科白を紛らわせ、彼らとの対話を模倣する。
 すなわち、己の中で新たな「ファウスト」を作り出し、己をファウストとして据え、心の内部で外部を創り対話を始める。

 それこそが、俺が「ファウスト」を読んだ結果である。

 外部に発せられぬ声無き対話を本当の他人と楽しむことが出来た俺は、幸せなのかもしれない。それは時間ではなく、深みに浸ることの出来た手の握り合いの中から、親指の動きだけで相手の気持ちを察することが出来たからこそ、俺は、このままで良い、と思うのかもしれない。
 イメージを残すために死を選ぶのではなく、イメージを残すために何処かに生きるのが、俺の本能の赴くところなのだろう。

 日が過ぎて「ファウスト」に向かう時、俺は何を思い出し、新たに何を導き出すのだろうか。
 生きとし者として再読し、新たな面のゲーテを知る。それこそが「ファウスト」に添うことなのだろう。

update: 1997/01/24
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