書評日記 第215冊
家族八景 筒井康隆
新潮文庫

 数々の哲学書の間に小説を読む。本来ならば学生時代に哲学書の類いを読んでおけば良かったのか……とも思ってみるが、当時の馬鹿な俺では無理だったろう。今では比較的すらすらと読み進めることが出来る。28歳にして脳の活性化が行なわれているのか知恵熱も出す。ぐるぐる巡る思考の間を埋めるのに、普通の小説は有り難い。頭休めというつもりはないが、連続して「存在と時間」を読んでいるのは疲れる。「魔の上」も疲れる。

 翻って「家族八景」を読んでみると遥かに楽なわけなのだが、其れは小説として読んでいる訳で、筒井康隆と対峙していると思えば、そうへらへらした読み方は出来ないかもしれない。でも、まあ、愛読者としての立場から言わせれば、素直に受け取るしかない文章に対して大きな満足を得た所に作品の良さがある。

 七瀬というテレパスがお手伝いとして数々の家を巡る。その中で起こる悲劇を超能力者として彼女は観察する。
 全ての章は悲劇で終わる。人間の内面を描いた時に出るものは悲劇しかないかと思えば悲しいわけなのだが、感情の起伏の薄い七瀬の態度と家族の中に描かれる心の憎悪を合わせてみれば、実験小説としての味わいが濃い。無論、其のような立場で描かれた心理劇に文学作品に見られる深い味わいを得ることは無い。
 どちらかと言えば、筒井康隆の描く世界そのものに溺れてみるのが正しい読み方ではないだろうか。其れがツツイストという筒井FANを創り出す由縁なのかもしれない。他の者がどのように筒井康隆を読み解くのは俺は知らない。心理劇に辟易してしまうのか、一見難しいように捻られた文体と内容に恐れを為してしまうのか……。ただ、「好み」という言葉が当て嵌まるように、解からぬ者には絶対解からない面白さが其処にはある。其れが筒井康隆本人の魅力だとすれば、其れを模しようとする俺は正しい道を進んでいるのかもしれない。

 全編、悲劇で終わる章の中には、不機嫌さが現われる。個々の登場人物達は単なる駒として動く。あるのは七瀬という女性から見る心理の醜さに過ぎない。七瀬自身の感情は問題ではなく、ただ、家族の中に現われる憎しみだけが描写される。
 何かの怒りがあるような気もするが、そうと読み解くには俺は筒井康隆を知り過ぎている。作家の内面から出てくるとするよりも、より偽造の形で現われる作家自身の表現の捻出の捻じれに過ぎないと思う。つまりは、そうならざるを得ない納得が其処にある。奇妙な同意を得るのに困惑しながらも、ニヒルな笑いを続ける自分を見て安心する。様々な評価があるだろうが、そのような批評よりも受け方を主にして読むと良いと思う。また、そのような楽しみ方しか出来ない。

 解説に「チェコの前衛小説のような」という科白があるが、前衛の名を欲しいままにして良いと俺も思う。其れは筒井康隆でしか書き得なかった小説のスタイルが其処にある。

 翻って自分の文章を眺める。複雑のテクストを模し始め、シンプルな感情を表わすにも其のシンプルが故に困惑を呈する皮肉な文体が其処にある。
 此れが好まれるか好まれぬかは俺の知るところではない。ただ云えるのは、俺でしかない文体を手に入れて、其れを自由に操ることの出来た自分に絶対の自信を持つ。老成極まりない古風な文体に自らを合わせるのは俺には楽しい作業である。

update: 1997/01/29
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