書評日記 第230冊
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹
新潮文庫

 村上春樹の小説を一言で評するならば、「何を言いたいのかさっぱり解からん」だが、掴もうと思えば幾らでも堀り起こせる物語が其処に在る。「ねじまき鳥クロニクル」の時は、被二股恋愛中であったし、現在は独りでは理解不可能な失恋中な訳だから、情緒不安定夥しく感受性の高い時期にあるので、本当の意味で村上春樹の物語を楽しんでいるか怪しい。しかし、「心の声を聴く」を読めば解かる通り、彼の物語の中に救いがあるのだとすれば、一番良い読み方と時期なのかもしれない。
 癒されるという病理的な単語を使うのは好まない。どちらかと云えば「社会学的に自己を理解しつつある」としたい。其れが歪みの中の心理であっても、所詮「普通」と云うものが存在しないならば、多少平均値から外れている自らの特殊性を上か下かは別として、自分の武器としていきたい。

 ロールプレイングゲームのように進められる2つの物語は、どちらも自己の発見に落ち着く。昨今の純文学ブームは、飛躍的に多層を重ねる社会と個人の状況に自分と云うものを再発見するゲームを大衆が見出しつつあるという現象だろう。無論、本当の意味で自己発見をして自己実現を為す者はほんの一部に過ぎないのかもしれないが、其れに期待するのが作家であろうし、集団としての社会の変化の元は其の様な微細な部分にあるのだから、当然の現象と云ってもいい。
 世の中に終焉思想が蔓延する中、俺の中では既に終焉を迎えてしまった自己意志では「再生期」に入りつつあるのではないか。つまりは「ユング心理学と仏教」に書かれている死が7番目に来て其の後に再生して光臨を為す牛の図の通りに歩みつつあるのではないだろうか。当然、大江健三郎の行っている5つの期をぐるぐる巡っているのかもしれない。しかし、どちらにせよ俺個人の前途は俺自身に正しい。正しくなければあらんと思えば正しいのであって、其れは自己を確立する唯一の手段である。故に俺は正しい。
 村上春樹が何を意識して書いたか解からないが、2つの物語から図と地の関係を見出すのはたやすい。冒険活劇としてのハードボイルドと哲学的な内省を促す世界の終わりとは、人間の2面性を為しているとか、行動せざるを得ない自分と内省せざるを得ない自分、最後には自分というものを取り戻さなければいけないという結論、其れが行動であれ思考であれ考える事によって前に進むという事、しかし時間の流れによって為し崩しに流れていく幻想的な現実の中に溺れなくてはいけない事、等の答えを見出せる。此等の感想は一見何処の小説にもあるような気がする。しかし、此処に記録しているという事実が、「世界の…」の感想という事実から生み出されたものであるのだから、やはり此等の感想を「世界の…」から導き出すのは正しいのである。ただし、俺だけに当てはまる正しさであるので、他人は別だ。
 何故に「正しさ」に拘るのか?多分、何かの解答を導き出したい欲求に駆られているのだと思う。現在自分が為している事は何なのか。酒も煙草も女も友人も食事も……全ての快楽を捨ててしまって、ただ読書に慈しみ一冊一冊の感想を書き綴っている行為は一体何であるのか?解答が欲しいと思っているのだろう。

 実は得らた所で何も無い数々の快楽に飽き飽きしてしまって、鉄面皮な自分だけを残してしまった訳だが、浪人時代の頃を思えば、遥かに読書と其の行為から得られる知識と知恵と納得感を確からしく感じている。其れは好ましい事実である。

 村上春樹の物語に不思議な点を潜ませるのは、其の日常性ではないかと思う。「指輪物語」のように物語然として描かれてしまえば物語としての姿がはっきりするし、P.K.ディックのようにSF然としてしまえば、SFとしての嗜好を強める。ファンタジーとして分類されても良い彼の物語が純文学として紹介されてしまうのは、全体に流れ込む日常ではないか。つまり創られた想像の世界の中に「眼鏡」という産物があった時、ひどく奇妙に思える訳だが、其れをまんべんなく書き散らしてしまう所に村上春樹の物語の不思議さがあるのだろう。
 その辺が、彼の癖であり、ぽこぽこ現われるペニスという単語は、彼自身の日常思考を敬意を込めて可笑しいと云わしめる部分かもしれない。

update: 1997/02/05
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