書評日記 第232冊
恋人たちの森 森茉莉
新潮文庫

 難しいと思わせる文章であった。「世界の終わり…」を読んで、脳が軟化しているのかもしれない。少なくとも、明治34年生まれの森鴎外の娘の小説を読み下すには、パワー不足であった。

 誤解なのかもしれないが、「森茉莉はゲイを中心にして描いた作家である」という認識が俺にはある。実際、「恋人たち…」に書かれる4編の短編のうち男性同士の戯事というものが対象になるものが含まれている。
 昭和30年代という時代が、未だ「性」についての認識が頑なであったためか、その制約に縛られる中での性への文学的考察を進めたのか、静かな文体の中にあるのはさほど激しい描写では無かった。
 もしかすると、西鶴の「好色女一代」のような奥床しさを持ったゲイの姿を描いたのかもしれない。ただ、男性同士、女性同士という愛の形態が市民権を得た(少なくとも俺の中では得ている)今となっては、それほど倒錯した感じはしない。

 ひょっとすると、ごく普通の恋愛小説として読むのが正しいのではないだろうか。
 男性の身からすれば、レズビアンは女性特有の厚ぼったさを感じる。肉塊と思わせる女性同士の絡み合いは、「慾」そのものが現われてしまうという肉臭さが付きまとう。一体化し得ぬならば、腹を踏み付けにして双方の内臓を結び付けようか、という程のじれったさを考える。そのような捻じれに身を置けない事を残念に思うか否かは別である。
 男性の身から見たゲイは、崇高さを感じさせる。此れは男という分類に身を置く己の同族意識から来るのかもしれないが、男女という性別=種の違いを意識し、双方の思惑を探っている性愛よりも、根底では同類であるところの健やかさを感じることができる。
 無論、上の事は男性の俺だから感じることで、女性である森茉莉の興味が其処であったかどうかは怪しい。しかし、昨今流行である少年愛を描く女性達という現象を鑑みれば、あながち俺が見るゲイの認識と違わないのではないだろうか。

 絶対的に現実とはなれない男という性は昔から何処かに「ロマン」を求める。即ち、打ち立てても打ち立てても結局の所自分の物にはならない絶望感に浸りつつ、それでも行動を続けなければ生きていけない身の置き所の無さを感じる。其れが男性同士が性が同じという故に何かを許してしまう気安さを産み、その虚しさを共有し、其れを吹き飛ばそうとやっきになる。それが彼らの求める「ロマン」である。
 異性という対象に対して興味を持ち、其れを涼やかに描く所に森茉莉の魅力がある。森鴎外の血を受け付いているのだから、森鴎外自身の作品の影響を多大に受けているのだろうが、不幸にして俺は森鴎外の作品を吟味した事が無い。故にその辺の考察は保留にして置く。

 奇妙な用語が出て来ない分だけ、それらに物足りなさを感じるかもしれない。ただし、山田詠美や松浦理英子のような現代の純文学と性描写の面で比較するのは、今だ用語を模索していた時代であったと考えるべきであり、むごい。

 果たして、ゲイという異端を無視して読み進めるか、其れを中心に据えて読むかなのであるが、異端を描くならば異端を対象にするべき理由があったと考えるべきだ。ならば、どちらかとも付かぬ混沌な性描写の模索の時代の作品として意識して読むのもあながち間違いではあるまい。

update: 1997/02/06
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