書評日記 第247冊
変身 フランツ・カフカ
角川文庫

 心の中から一人を消す。死んでしまえば清らかな想い出は想い出のままで止まることができる。不幸を願うのでもなく幸福を願うのでもなく、ただ密やかに消えて貰えば、それでいいのかもしれない。
 厳然として価値観は己に属し、評価基準も己に属する。誰の支えも必要としない自分というものを保持して、高校時代からの考えを実行すれば良いのだろう。
 少なくとも、俺には恋愛は難しすぎる。それだけだ。

 名声というものに無縁の生涯を送ったフランツ・カフカは、サルトルやカミュに多大な影響を与えたそうである。生憎、サルトルもカミュもまともに読んだことがないので、どの程度の影響を与え、サルトルやカミュが他の人にどの程度の影響を与えたのか、俺は知らない。
 でも、奇妙なテーマを抱える「変身」という作品が、誰にでも魅力的なことであるのは確からしい。それが、グレゴール・ザムザが朝起きると毒虫になっているという、変貌という明示的なテーマが数々のSF作品に伝わっていることからも云える。変身というものが、何故にこんなに皆の魅力を引き付けるのかといえば、がんじがらめに為りつつある社会からの目からの脱却の願望に過ぎない。無論、その結果が、毒虫に変貌してしまったグレゴールの死に至るとしても、天井にぶら下がる彼の華やかな行ないが人々の目を引きつける。刹那的な快楽の誘惑が其処にある。

 様々な読み解きが出来る中で、著者カフカの人生というものを研究をする必要があるのだろうか。ただ、彼の恋人との時間の中で、手紙を500通書いたという事実は、彼を彼だけではない思考の海へと誘ったのではないだろうか。実はそう思うのは、この半年間で1Mbytesに及ぶメール書きが、今の俺を形作ったからそう考えるのである。思考というものが、単なる頭の中の自己満足ではなく、いちいち文章にして確かめる、そして相手に出すという外部的な要因を含み、単独ではない自分を確認するという作業は、個人を大きく成長させる。それらの日々の自己発見が、俺を形作って来た。
 日記を書くという事は、正確な内省をして、自己を再構成する良い機会ではないかと思う。文章を書くということは、フィードバックが大きい。それを疎かにして対峙するのは、少なくとも思考する者のする事ではないと思う。無論、解からない人には解からないのであるが……。

 「変身」の難しさは、余りにも正しいその姿だと思う。ただ、今の俺は己を正しくあらんとしているし、絶対的な論理の鉄壁を持っているので、この作品に矛盾を感じない。わだかまりを感じない。正しい成り行きの中で、グレゴールが殺されて、残った3人の家族が嬉々としてピクニックへ行く。そうでしかなり得ない現実に面した時、俺はそれに殉ずることが出来るであろう。どう足掻こうとどう嘆こうと、決して自分の想いのままに為らない現実と、将来の希望を抱えてしまった俺としては、良い意味で任せになるしかない。

 「ある戦いの描写」では、カフカ自身の人格が問われるのだと思う。もし、カフカ以外にこのような小説が書けないとしたら、俺は絶望の淵に追いやられてしまうだろうが、そうでないことを俺は知っている。ただ、あまり現実には起こり得ないことも知っている。しかし、現実に起こることを望んでいても不思議ではないだろう。
 そうあるべき姿というものに、何故人はそうしないのか。正論だというならば、正論が通らない現実というものは一体なんなのか。正論を通そうとしない人とは一体誰なのか。結局のところ、一部分の人でしか動かし得ない社会というものに幻滅して、微量なベクトルとなることを諦める。ただし、俺は彼らとは違う。どちらにしろ、それに屈する己というものが感情的に許せないのであるから、俺には其処にしあわせを感じない。故に、己の心に素直な自分が残る。

 何かを読書という行為から引き出すことは、一体何の役に立つのだろうか。読み継がれるカフカの「変身」に人は何を見出すのだろうか。様々な個人的な憶測を見出し、心の中に「変身」という作品を刻み込む。
 読んだという印ではなくて、読み込み奪い取ることこそが、読書という行為の根元ではないかと思うのだが、それを知らぬ者が知らぬままに過ごす多数という存在に俺は押し潰されるかもしれない。

update: 1997/02/14
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