書評日記 第251冊
家族関係を考える 河合隼雄
講談社現代新書

 社会の基本単位が家族だと云っても過言ではあるまい。血縁関係というものは利己的な遺伝子も含めて、総合的な利得の向上を目指す基盤でもある。ただ、家族という社会のみに安住してしまうと、夫婦関係・親子関係・兄弟関係が無自覚ゆえの亀裂を産み出しかねない。
 常に意識せよというのは無理があるものの、気に掛けるという動作により、敏感な感性を作ることが出来る。タイミングが大切である。

 自分の家族を考えてみると、良い事例が沢山出てくる。単身赴任の期間が長かった父親の座を確保しようと、俺の母親は常に父親という存在を俺に意識させようとした。兄弟という関係から、兄という存在を意識し、理系の父親からの論理思考を受け継いだ。
 多分、両親による正しい家庭という意識が、俺の家庭には強すぎたのだろう。結果的に、競争力を得ない、独立した存在でしか為し得ない己を形作ってしまった。
 無論、思考に縛られ、常に考えてから行動するという不気味な慎重さが、不思議な人生経験を積み重ねる結果になったに違いないが、己しか操作できない自分という存在さえ、持て余しぎみなのは、現実社会の矛盾性に俺の感受性が悲鳴を上げ始めたからなのだろう。

 誰でも何処か病理的なものを抱えて、家族の内部でコンプレックスを感じているとするのは易しい。ただし、人は生きている限り、そのコンプレックスを積極的であれ消極的であれ克服して、自らを取り戻さなくてはならない。
 子離れ・親離れを意識的に行い、家族の絆というものを認識するところに、家庭内の不和を解消できる部分がある。離婚や浮気等の崩壊を進める要因でさえ、家族の一員としての立場を考えやれば、無視して切り捨てることは出来ない。何故ならば、それは自己の大切な要因に他ならないからだ。自己の幸福は、隣人の幸福によって成立する。それは、理解による幇助の穏床であり、自己を支えるための場の確保の行動である。
 つまりは、利己的な行動と利他的な行動との融合が図れ、自己矛盾に苦しむことがなくなる。

 幸いにして俺の中でキリスト教が大きな部分を占め、マリア像というものが未だに心に残っている。男性原理ではなく、女性原理としてキリスト教を扱う俺にとって、日本の中での仏教思想との融合は、あまり無理を感じない。
 それらの特異性が俺を形作っている。

 実は、それが特異かどうかは解からない。ただ、意識しないよりは、意識しての暮らしの方が、単なる情動には終わらない、後悔の少ないやり方が出来るのだから、良いのではないだろうか。

update: 1997/02/17
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