書評日記 第253冊
盗賊 三島由紀夫
新潮文庫

 恋愛というものが奪うものであれ奪われるものであれ、隣人が幸せになれないのに、そうする意味はないと思っていた。恋愛という目的を達するために犠牲を払うのならば、しかも他人の犠牲を払うのならば、俺は殉じない。
 まず、人が在るという思想の中で生きてきた俺には、人としての一貫性が魅力であり、散漫な嘘は嫌う所だ。仮想に保つ己を維持するのは力量が問われる。苦笑いで許される身ならば、消え去る方が良い。賭する時には、全身を投げ出す。その結果が不幸であろうと幸福であろうと関係ない。在るべき姿という部分に自分を落ち着けるだけだ。
 だからこそ、自分の云った言葉は覚えて置きたい。自分の言葉に殉じたい。

 言葉が伝うるのは、記号ではない。単純な神経網には理解することのできない、複雑な図形だ。組み合わせではなく、其処に存在する感情だけを伝える。幾千となく湧き出る言葉の中から、ひとつの単語を選ぶ。其処には嘘は交じらない。少なくとも、聞く者にとっては、彼女の信じる真実を伝える響きに違いない。
 だからこそ、その言葉を信じて、信じることにより自己を添わせて変化をさせる。人の全体を信じるということが、苦痛であればこそ、束縛と緩慢の最中で人は戸惑いを覚える。果たして、彼女は戸惑ったのだろうか。

 結果しか見えぬ彼女の人生の中で、俺に投げかけた過去の言葉は過去のものに過ぎなかったのか。すなわち、それは「嘘」であったのか。
 幸せ者の幸せたる由縁は白痴の所業に等しい。ただし、押し抱く彼女からの言葉の中には、一片の真実さえも含まれてなかったとすれば、数々の言葉を真剣に聞いた俺の立場はどうなるのだろうか。彼女の吐き出した言葉というものは、一体、本物だったのだろうか。

 忘れ得ぬ記憶の中で、一言に殉じる己を顧みた時、其れを男性の性ゆえの浅墓と彼女は笑うのであろうか。純粋な心を純粋なままに保ってしまった俺という存在に投げかけられた数々の言葉は、嘘だったのだろうか。偽りの人生、裏切りの人生こそが、彼女の姿だったのだろうか。
 単なる虚像かもしれぬ、その姿を変化させるのが女性の性だとすれば、嘲笑わなければならないのは俺の方かもしれない。

 彼女には決して捉えられぬ感情を俺は得た。素直な心を素直に保つ方法を俺は得た。
 棘の人生であろうとも、これだけは譲れぬ心というものを、翻弄するのが彼女の意志だとすれば、先には決して出会わぬことを願うしか俺には方法がない。

update: 1997/02/17
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