書評日記 第270冊
エロ事師たち 野坂昭如
新潮文庫

 題名通りエロティックな部分を前面に出した小説なのだが、通常の意味でエロティックなわけではない。つまらぬ猥雑な言葉や卑猥な表現はほとんど出てこない。むしろ、歪曲した性交への目から通した物語が描かれていると思われる。
 主人公は、ブルーフィルムを作成する性の表現者達である。自らを性交の快楽に埋めるのではなく、他人をして如何に快楽に溺れさせるか、という部分に問題が集中する。

 乱交にしろコールガールにしろダッチワイフにしろ、そこには客観的な性への快楽美があるだけで、快楽そのもので安住してしまう愚かさが無い……、というよりも、文学やら学問やらのお経を唱える阿呆臭さを示しているのかもしれない。
 どちらにせよ、有象無象の性表現からは一線を画した小説であるのは、澁澤龍彦が解説で書かなくても良く解かると思う。

 阿佐田哲也の「麻雀放浪記」のような男らしさがある。つまりは、結局のところは男というものはプライドやら権力やらの虜になっているのであって、それらに骨を埋めるか否かに価値観があるに過ぎない。無論、それは「男らしさ」の追求なわけなのだが、歴史的に性に関して先に解放されてしまった男性という種を考え、また、決して自己再生産を行わぬ、損得の幅の広い男性の人生を考えてみれば、架空ではあっても「美」というものに惹かれなくてはどうにもならない、自己実現の虚しさを感じざるを得ない。当然、時として急激な鬱状態の中に自己というものの拠り所の無さに恐怖するわけなのだが、普段は気に掛けない。
 ゆらゆらと揺れるしかない、翻弄されるしかない、男性の性というものの、日本の発端が「エロ事…」であったのだろう。

 文学的に紐解けば、倉橋由美子と同時代であり、大江健三郎と同時代であり、三島由紀夫と同時代であるところに、この作品により野坂昭如が絶賛されたのは、当然であろうと思う。筒井康隆が当時何をしていたのか解からないが、半村良が巨大餃子ののたくる性交を描いたのはこの時期ではないだろうか。
 隠された性を表に出す。そして、サドのように厳しく描くのではなくて、すべてを「遊戯」として捉える。最近の純文学に娯楽性が加わるのと同様に、新しい調味料を加えることによる感覚の広がりが、小説に与えられている時期だったのかもしれない。

update: 1997/03/05
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