書評日記 第276冊
仏陀を思想家として眺めるという姿勢は初めて気が付いた。俺にとっては、常に仏教の始祖としての仏陀があり、仏教に帰依せぬ己には、仏の教え=仏陀の言葉を知る必要はあまりないような気がしていた。
ただ、「親鸞」を読んで気が付いたのであるが、所謂、思想家としての親鸞像と、その思想を受け継いだ形の経典の中の親鸞像を混同してはいけないということであった。それは、小説家と小説との違いのように、小説で語られているものが小説家を表わしているのではなく、小説家が著わすものが小説という形となり、読者はその窓から垣間見るちらちらとした小説家の思想に触れるに過ぎないということに似ている。
つまり、行動家としての親鸞や仏陀を見るのである。
貴族の王子として仏陀は生まれる。
人間の歴史からみれば、仏陀ではなくともいずれは仏教を開いたかもしれない。それは、人類の心の進化を意味し、ひとつひとつの段階を経る進化の道の中で、心の安らぎという精神の安定を求め、それを広めていこうという思想家の存在は不可欠な要素であり、科学の世界に科学者が続々と輩出されるように、精神の世界に宗教家乃至思想家が続々と輩出されてもおかしくはない。
しかし、決して全体を把握せぬ個人の立場からすれば、世界がどの方向に向かっていくかは別として、まずは、自らを使って何かを為し得ることが重要になる。それは、何故に生命が己に委ねられたのかという疑問と同様に、流れに任せられない感受性を持て余してしまう頭脳を持ち得た異端分子の悩みに過ぎない。一般は一般であるかこそ、社会は安定を保つ。しかし、安定とは進化の道筋の中での小休止でしかなく、止まったままの社会はいずれ死滅せざるを得ない。それを推し進める原動力が、社会の中では微々たる要素であるところの者であるものの、彼が自覚するに至ったとしても、心の安らぎは得られない。
少なくとも、考え続ける者にとって、宗教=思想と読みとることによって、腰を下ろす場所があればそれで良いのかもしれない。世俗の垢にまみれては、悟りの域に達せないとして、山篭もりにて修行を重ねる者であって、悟りに達することで、山を降りて再び世俗に身を浸すことなしには、悟りを開いたとは云えない。
個としての安定を望まず、全体の安定を望んでこそ、本質的な個の安定がはかれる。つまりは、個は全体に属し、全体は個によって成立しているからである。
「分別智」と「無分別智」という用語を知る。
善と悪、生と死、美と醜、等をものに依存するのではなく、純粋にイデアとして存在するものとして捉えるのが、分別智であろう。ものに属する様々なイデアが、周りに撒き散らす腐臭を安易には嗅ぎ分けないことが無分別智であろう。
インドという国が、人の歴史を重視せず、普遍的な思想を重視したがゆえに、仏陀の人生が調べにくいという点に共感を覚える。
また、仏典には、仏陀の言葉の模写だけではなく、バラモン教に先祖帰りするような希望も混入している、という事実に、人の安易さに苦笑を捧げる。
update: 1997/03/12
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