書評日記 第278冊
構造と力 浅田彰
剄草書房

 真面目に生きるのか、切断と結合を繰り返しながら踊りの中に身を投じるのか、どちらが良いのかわからない。ただ、さして社会的地位を欲せず、自らの欲望に没頭すれば、どちらの主義を貫いても幸福を得られる。それが、永遠であろうとも一瞬であろうとも、"今"でしかない現実というものを大切にすれば、誰にも文句を言われる筋合いのない己を確立させることができるだろう。

 彼が社会学者として華やかなデビューを飾ったかどうか、俺は知らない。ただ、現在の彼の名声を鑑みれば、社会的に受け入れられたという場所に居る彼の姿が見える。無論、彼個人が、現状をどう思っているかはわからないものの、「構造と力」に書き付けられる彼の踊りが彼の本心の希望ならば、半面を気付かないで過ごすことのできる幸福を得られているのかもしれない。
 それは、自己耽溺の中にこそ、脱構築を叫ぶ者が構築の中に留まる安堵が得られるからである。常に、神乃至贖罪者としての地位にいれば、巡るめく思考の海に身を投じなければならない心理学的な罠に陥りかねない。
 小説家ではなく、思想家として成立し得る浅田彰という人物が、其処にいられるのは、まさしく、創造ではなくて、解読に熟達しようとする己を残したためかもしれない。

 様々なテクニカルタームに足を掬われるのだが、逐一自分の中での隠語と照らし合わせれば、まことに当たり前のことを云っている彼の姿を思い、笑いを禁じ得ない。それは、嘲笑ではなくて、仲間としての同意。同じ悩みを分かち合うのかもしれないという幻想。そして、態度として現われる数々の彼の言葉に接することで、俺は内部に渦巻きつつあるカタルシスではなく、外側に渦巻く線から面を為す情景を思い浮かべることができる。
 すなわち、正しさというものがあるならば、相対的であれ絶対的であれ、イデアの影から囁く審美を感じた時、同意と納得の中に居る自分があるだけなのだ。

 本質としての幾何学的な図に、数学的な真理が宿る。いずれの学問でも対応づけられる正確さは、図であるからこその簡素であり簡潔である同意を得られる。
 無論、そのような真理を発見、または、培ったところで、何のたしになるのか、という意見もあるだろうが、"踊り"の中にこそ潜む、どろどろとした停滞ではなくて、目的のない駆け回りこそに価値を見つけているに過ぎないのである。

 生憎、バタイユ、ドゥルーズ、フーコーと連ねられる人名に親しくはない俺なのだが、ニーチェ、ハイデガー、ユング、と連なる中から生まれたる思想とは遠くはない、いや、ほとんど一致とも思える地点を見出すのは、楽観的過ぎるだろうか。

 社会の中である立場を意識しつつ演じるという行為は、贖罪者たる立場を認識しつつも神への転換、また、神は贖罪者への転換を為す、"異邦人"としての赴きにならざるを得ない。
 "遊び"を遊びとして捉えるだけでは面白くない。盛り込まれる知的な腐臭を携えて、振り回して切り裂くほどの活力を見出すならば、善悪はともかくとして、常に正しくあらんとする、自らの信じるべきところ=欲望=遺伝子に忠実な己を演ずることができるだろう。
 それこそが、他人には虐げられぬ強い己を決定付け、個として独立する自分に、大いなる誉れを与えたいと思う場所に至る術なのかもしれない。

update: 1997/03/14
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