書評日記 第281冊
今、必要なのは文学論ではなく、それに対抗する理論である、という一節が魅力的な本である。柄谷行人には珍しい文芸批評である、と書かれているところから、普段の彼とは一味違った趣きを得ることが出来るらしい……のだが、彼の著作を数多くは読んだことがないので、そうなのかは俺には解からない。まあ、文学論にしろ反文学論にしろ、小説を形作りつつある人達とは真っ向から対立するものであるから、補佐であろうと打開であろうと、小説家にとって新たな諮詢を加えるに足る批評であればそれに越したことはない。むしろ、寄り添うような誉めちぎりの文章よりも、アイロニー溢れる幅広い多角的な視点からの批判または比較の方を望むのだと思う。少なくとも、柄谷行人の一矢は、それなりに的を射ていると思われる。
文芸批評家が文学の根底を押し上げるのか、小説家が文学の根底を引き上げるのか、どちらなのか立場によるのだろうが、少なくとも、小説家が独り立ちし得る状態に至るには、きちんと"模索"をすることが必要である。それが、自分の人生への模索であるのか、作家としての読者を意識した模索であるのかは問われない。ただ、自分自身の実現のために小説という手段を用いようとするならば、2つの"模索"の方向は一致する。まさしく、心理を探るという点で、何かを追求して止まない行動が、何かを為し得るのであり、そこにこそ満足がある。その満足の基準がしっかりとした基盤であれば、作品に対する批評は解説に過ぎず、一個の独立した物体として立脚するに至るわけである。
文学は男性によって作られて来た。だから、小説の中での女性は、歌舞伎の女形に過ぎず"表徴"でしかない。だから、「女の描き方がうまい」なぞという陳腐な批評がまかり通ることになる。また、好ましい批評を得るように、描き方に特筆を為すようになってしまうのである。性と暴力とドラックが流行っているわけだが、敢えて、タブーを書かなければならない理由はない。むろん、山田詠美の云う通り、「黒人でなければならない必然性なぞなかった」という場合もある。ベストセラーは、読者の好みではなく、ベストセラーだからこそ読者の好みに合うのである。どんな小説であってももぎ取ることは出来る。ひとつの小説に全てを詰め込むのは間違いであるからこそ、ひとつの小説は一面からのみしか真実を伝えない。
つまりは、発散するところに小説としての価値があり、様々な試みが為されなければ、そこはことばのユートピアとは言えない。
勿論、読者として、すべての小説を受け入れる必要はない。選ぶ権利があるし、好みに合わなければ、合わないという部分を大切にすることが必要である。それが、一般大衆に帰依しない方法である。
ある意味では、文学は貴族の嗜みに過ぎない。すべての人が、文学の良さを分かち合うようには出来ていない。
ただ、望もうと望むまいと怒涛の如く流れていく社会の中で自己を掴もうとすれば、耽溺する場所を確保しておくのもいいと思う。
無論、実現者のみの特権ではあるものの。
update: 1997/03/19
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