書評日記 第284冊
最近、本に何を求めるかと問われれば、「心のゆとり」と答えるかもしれない。焦る理由が無い訳ではないものの、焦りだけで前に進まない自分がいる。何をするにしても数年という単位で考えた方がいいのだろうか。ゆっくりという時間の長さを確かめるように一日一日を確かめるように過ごしたらいいのだろうか。
「愛の決断」でポイントになるのは、まさしく、男女の愛なのかもしれない。むろん、その"愛"に模範があるわけではなく、様々なパターン、いや、人それぞれが一生を通じて培っていく経験という名のもとに自分なりの"愛"のパターンを掴んでいくものだと思う。つまりは、まことに個人的な事情を踏まえて如何にして自分を偽ることなく生き方というものを表現していくか、というものだろうか。
ある意味では、「愛の決断」はあまりにも当然な結果に陥っている。仕事の忙しさのために離縁させられた男性と、子供を持たない約束をしつつも子を孕んだ女性と、彼女を離縁する男性との、複雑というか単純というか、男女の組み合わせのひとつのパターンの披露のような気がする。"子供"をキーワードにして全編がそれに終始する。SFのように奇抜なアイデアもないし、壮大な冒険活劇でもないし、前衛的な官能美でもないし、根元的な問題作でもない。しかし、堕落したポルノではないし、目腐れする不倫ドラマではないし、すさんだ暴力映画でもない。いまひとつ、特徴ある言葉を見出せないのだが、何かひとつの未来を期待する登場人物達の姿にきちんとした現実味というものが与えられているような気がする。
突飛な表現をしてしまえば、「大草原の小さな家」の現代版&大人版のような感じであろうか。時代は、まさしく現代である。しかし、個人的な幸せというものは今も昔も変わらず、決して今が難しいわけでもなく簡単でもなく、時代時代に生きるいるからこそ、人はその時代、または、自分の置かれた環境の中で未来の自分を希望していく。安定の中に安住するのか、それとも、期待の中に飛躍するのか、それの判断は全く別であるものの、状況は状況として判断し、自分を一個の繋がりとして保つならば、過去にも未来にも悔いを残したくない決断というものを下したい。また、下さなければならない"とき"というものがあれば、その"とき"に人は、どれだけ自己を確認しつつ自己の中の強さを押し出すことができるのか。
ああ、そう、つまりは「決断」なわけだ。
最後の最後まで子供を切望する彼女が冷たい元夫に期待するのは、やはり、かつて愛していた彼であって、彼への希望を最後まで保とうとする彼女の努力は、傍目からみればばかげているくらいの無駄な行動かもしれないが、あまりにも無残な環境というものに戸惑っているからなのか。
人は人それぞれの事情がある。夫婦というものが、冷たい契約として結ばれるものならば、そこに心情は介在することができない。細やかな感情があればこそ、逆に相手の不可解な行動が不可解なりに理解できないし、理解できないからこそ、逆に何かを期待したりする。そこで揺れてしまうのは人だからであって、逆に"人"でなければ、揺れはしない。
そこで何かを「決断」しなければならないのは、安定の中へ安住する時期ではなくて、希望の中へ飛躍しなければならない、歓びであるものの、不安を抱えざるを得ない。それでも尚且つ「決断」しなければならないとすれば、自らの希望を知り、先にも後にも偽らない自分を残すべきなのだろう。
希望だけでは成り立たない"現実"というものの描写がこの作品にはあるのかもしれない。しかし、希望に適う自分を立脚させるのが、この作品の主題である。
update: 1997/03/24
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