書評日記 第287冊
4000年を生きる最長寿ラザルスが語る"性愛"(エロス)と"聖愛"(アベガー)の話。
最近、再びSFに親しみ始めている。いや、どちらかといえば、貪欲な学術慾から離れつつあるのかもしれない。急ぐことはないというか、無理矢理詰め込んだところで、只ごちゃごちゃになってしまう知識だけに疲れ果ててしまっているのかもしれない。
どちらにしろ、総てを習得するのは至難の技であるし、総てを習得できないとしても、ゆっくりと時間の流れに身を委ねる余裕ぐらいは持っておく方がいいのかもしれない。
すなわち、生きるにしろ、愛するにしろ、たっぷりと時間を掛けたところに暖かな楽しみがあるのだろうし、個人的なしあわせを求めて"いま"という時間を焦燥感のみに頼って過ごしたところで、心の余裕は生まれないのである。
いわば、自分のコアの部分を常に忘れない。コアだからこそ忘れない一貫性を保っておけば、それで十分ではないだろうか。
それは、社会の中で一人翻弄されてしまう自分だからこそ、自分に対しては余裕を持って扱わなければならない繊細さを保っておきたい、という願望である。豊かさというものは、時間を掛けて培われるもので、一瞬のきらめきは、一瞬だからこそ良き想いとして人生の一頁を飾るのかもしれない。
長い短いは別として、常に余裕を忘れずに、ゆっくりとした甘美な時間に浸っておくのも悪くはない。
全3冊を読むのに1週間は掛かっただろうか。朝晩2時間の通勤時間の中で、書に親しむのは、忙しげな会社員の毎日の中の個人的なゆとりの時間である。読まねばならぬという切迫感からでもなく、読書量を誇る優劣ではなく、ただ、自分の中にある価値観のために、豊かさのために、自分を自分として置いておける自信のために、書という趣味を持つ。
あらゆる経験は、先に於いて生かさなければ「経験を積んだ」とは云えない。学習するのが人間であり、辛い経験により臆病になるのが人間のような気がする。
それでもなお、静かな自分を保ちつつ、熱くなれる自分を秘めるためには、何をするにおいても、自分を見失わない、先の自分を失わない慎重さが必要なのではないだろうか。
言わば、長寿を全うするにも、短命に赫奕するのも、同じ1日1日という時間を、自分にとって一番正しい言動を慎重な思考を持って選び抜くのがよいのかもしれない。
それは、どのような楽しみであれ、自分が一番興味あることであり、自分が一番楽しむべきことであり、自分に対して一番正直な自分の姿を確立できる自分というものを常に意識しておくのがいいのではないだろうか。
若さが"性愛"を求めるならば、急ぎの短命種の慌てた愚行かもしれない。しかし、短命であればこそ、頂点を極めた時の歓びを甘受して、最高の時のままに幕を閉じれば、それが本当の人生であろう。
老齢さが"聖愛"を求めるならば、流れる時間のままに、小春日の中にさざめく小川の囁きにこそ、永遠に続く歓びの根元があるのかもしれない。
ただ、まあ、ハインラインは、ラザルスに"性愛"を託したわけだが……。それが、男性という性が原因なのか、ハインラインの出した彼自身への結論なのかは、よくわからない。
云えるのは、総てに十分な時間を掛けよ、ということだけかもしれない。
update: 1997/03/31
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