書評日記 第290冊
未だ、サイバーパンクが死語ではなかった頃、本当の意味でのSFという手法を借りて、コンピュータを小説にすんなりと組み込んだ小説に仕上がっていると思う。
コンピュータが小説の中に出てくると作家は気構えてしまうらしい。村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」の対話の場面はあたかもオフコン時代のものだし、森博嗣著「すべてがFになる」ではFTPの使い方を長々と説明する。
思うに、TVが小説の中で出現するように、日常の中にTVがあるように、仕事の中にコンピュータが存在するように存在しいればいいのではないだろうか。
そういう意味で、科学技術に対する過剰な衒いが、あらゆるSFのジャンルではない小説の中に含まれているような気がする。
あらゆる、技術的な説明は説明に過ぎないし、その「説明」自体を楽しむのならば別として(広瀬正の「鏡の国のアリス」のように)、無駄な説明は無駄でしかない。陳腐化される説明は、いつの時代においても陳腐ではないだろうか。
B君が、電脳の中に組み込まれるところは、士郎正宗著「攻殻機動隊」を思わせる。
沈黙化した都市の崩壊、耳を覆う轟音こそが、最大の静けさであるのは、大友克洋著「童夢」や「アキラ」で描かれる。
ギルガメ師という言葉。
非常にピントがあっている小説ではないだろうか。
村上龍のおどけたセックスよりも、村上春樹のおざなりな女性像よりも、ひとつひとつの場面は著者である島田雅彦の中から本物の形で紡ぎ出されているような気がする。
それは、彼のホームページにある「神曲を研究している」という言葉を鵜呑みにするべきなのか……。あまり好きな外見ではないのだけど……。
筒井康隆の正統な継承者なのだろうか。スタイルが似ている。
update: 1997/05/04
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