書評日記 第297冊
篤義少年の成長期の話。
「最後の清流 四万十川」と銘打たれる古き良き村の装いが、篤義少年とともに変遷していく。
篤義少年=作者であるとして、この作品は読まれる。また、作者自身もそれを意識している。
かつてラジオドラマで番組っていた「四万十川 あつよしの夏」は、森本レオのナレーションが作者:笹山久三を意味し、小学3年生の頃の鮮烈な想い出を、鮮烈なままに描き出していく。
それは、老人が顧みるの良き少年時代の想い出ばなしではなく、かって本当に現実にあり、其処に過ごしていた少年=子供の姿そのままの思い出として語られる。
それは、決して良き思い出ばかりではない。しかし、「大切な」想い出であり、大切だからこそ、忘れられない、忘れてはいけない、決して忘れるものか、という意固地な態度をとりたくなるほどの、現在の自分のおいて強調された過去の想い出が其処にある。
単なる回想に陥らないのは、現在の自分を形作る大切な基盤であり、基盤だからこそ年月と経験の積み重ねの中で培われた現在の自分に至る過程とその原点として見る確かな目を持っているからだろう。
実は「四万十川」の中の篤義は、少年というには幼い。
小学3年生という歳、10歳という年齢は、本当の意味での記憶の始まりの時期だと思う。それ以前は、環境の中に遊ばれる自分を想うに過ぎないのだが、10歳の頃、子供はひとつの人間として、自分を知るようになる。社会の中の自分。つまり、人とは違った存在である自分。立場による違い。自覚。自己。
自己をより知るということは、自己を見つめることであり、集団の中にいる自分を見つけることに過ぎない。
小学3年生の篤義は、「詮議」の途中、集団の中から遊離して、独立した存在である自分を見つける。
大人ではない、子供としての存在の自分を確認した子供は、どうすればいいのだろうか?
ひょっとしたら、そういう子供は既に子供ではなくなってしまっているのではないだろうか。
自分が29歳になり、過去を思い出す。
あまりにも変化をしない自分、変化を拒み、自分を信じるということを主眼にして、夢を追うことを忘れなかった、また、忘れ得なかった、正しいことは正しいことという、そんなことを頑なであろうとも守って来た私は、結局のところ、「正しい大人」にはなれそうもない。
子供の頃に考えた大人にはなれず、あの頃と同じ気分で「夏休み」を過ごす自分を発見した時、他人はどうするのだろうか。人は、どうすれば良いのだろうか?
変わろうと望むのは誰なのだろうか?
変わるべきなのだろうか?
update: 1997/05/17
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