書評日記 第302冊
吉本ばななの父親。
父親というイメージが先行してしまってなんとなく文章がじじむさく見える。著者近影がじゃまをしているのかも……。
諸々のマスを解説するのだが、時代が最近なのか、それとも争点とするところが当たり前なのか、それとも社会学的な言及が現在にフィードバックしているからこそ古く臭くみえるのか、よくわからないのだが、なんとなく興ざめをする部分が多い。
ただ、当たり前のことを当たり前でありつつもひとつひとつ言及していくのは難しい。それは、当たり前であるからこそ、紐解かれたところで共通の認識でしかないイメージが創造されるに過ぎない。しかし、「当たり前」という言葉を発する前は幻想すらしなかったイメージが出現されるところに、「当たり前」を解析していく意味がある。そして、その能力こそが現在の当たり前ではない「当たり前」を解析することができる唯一の力となる。
そんな意味で、現代の現象を、誰もが知っている事実を誰もが知っているままに解析するのはどこか刹那的な響きがある。
流動する現代という社会と時代に自らを沿わせて変遷させるのは難しい。
なぜならば、「社会」は個を集めて社会を形作るのに対して、人は個そのものだからである。個を吸収し、個を吐き捨てて社会は流動する。社会としての総体は、個を必要するにも関わらず、個の意識・行動とは関係なく動く。個は、社会の流動に参賀しているにも関わらず、参賀しなければ社会から捨てられる運命を背負い、やむなく社会に参賀する。
流動するのは個が新たな個が古い個を捨て去ることによる。古い個の培ってきた経験を我が物として圧縮した経験の中からポイントだけを抽出する。新しい個は常に効率よく動くように出来ている。生産と模索の流れが個の使命である。そして、古くなるということは、その個がよく行動に従事していたことを示している。
対峙する社会とその構成員である個という関係は、個が社会を支えているという事実は間違いないのだが、社会に圧迫される個という事実も浮き立たせてくる。それは、個は個のみで社会を存続させるのではなく、複数の個があって社会の中の個の立場は常に流動的でだからである。社会の中の座は変化しなくても、そこに位置する個は変動する。個の変化は、あまりにもちっぽけで、永遠なものではない。座を争って繰り返される淘汰の流れそして時間こそが社会を支えている。
そんなことを個が考えるのは間違っているのだろうか? 意識的に社会という総体を見付け、大衆というわけのわからない存在に比する形で個を存在させ、様々な個との間に差異だけを認め(または認めさせられ)、絶対重ならないものの絶対違わない存在としての個と個の関係を社会と個の関係に還元してしまって、個と個の兼ね合いの難しさを社会と個の兼ね合いに引き戻し、社会に悲観し、あらゆる個との関係に悲観してしまう。
多層化される社会ではあるものの、全体を網羅したところにある「社会」という存在が私自身には重く感じられる。ある意味で、どこにもありはしない「社会」という存在を個ではないことを理由に否定して、構成員ではなくて観察者としての「社会」との対峙、そして、虚ろな個としての存在を一日という時間に埋め込もうとする作業を続けることは、果たして、そんなに珍しいことなのだろうか?
こうやって様々な呟きを書き付けてはいるものの、一体誰が共感してくれるのか?
そもそも「共感」すら拒否したところにある私の社会と個という関係を意固地に守る態度は、目先に流動する朗らかな世界が私自身には非常にうそ臭く見え、すくなくとも私自身に関していえば、その社会の構成員ではない私は「異邦人」でしかない。
いわば、「根元的な」共感の中にこそ、私の望む社会がある。
むろん、この現実の社会こそが唯一の社会であり、唯一の社会を拒否すれば死を以って逃走しなければならないとすれば、多層化という響きに憧れると共に、本当の意味でみずからが沈む込むことのできる社会を、また、みずからを形作ることのできる社会に埋没するのが、生き残る唯一の方法であろう。もちろん、生き残ることに価値を見出している限り、であるが……。
誰もが何かを抱えているという科白がある。
だが、私には「誰もが」という能天気な言葉をもはや言えない。
update: 1997/05/30
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