書評日記 第306冊
大理石の中に塗り込められたアンモナイトは化石となって古代の情景を現代へと思い出させてくれる。ただ、かさかさとした水気のない砂の塊になってしまった化石が伝えるものは乾いた史実であって、生きて躍動している現実の心は、やっぱり、アンモナイトとは違う。
干刈あがたという小説家の自伝……というか、彼女の見つめてきた一年が記されている。夫がいなくて、子供が二人いて、学校を見つめて、登校拒否の生徒を見つめて、それが記されている。
ぷちぷちに切れたエピソードのように見えるものは、現実の話であれ架空の小説であれ、ひとつの繋がりがあって、作家の視点があって、世の中が刻々と流れていく時間の中をひとつひとつ切り取って、自分を支えてくれるものを見つめて作業である。
離婚という事実を受け入れてしまった家庭が不幸ではない。「離婚」という現実に対して、世間体とか、他人の目とか、自分の中にある常識だとか、そういう自分とは別のところにある価値観に自分を寄り添わせてしまって、その尺度だけで自分を計ってしまうところに「不幸」の根元がある。
学校に行けなくなるのは、集団の中の様々な思惑に混乱してしまうからだと思う。
誰も気に留めない事実に気がついてしまって苦しくなる。そんな苦しみを分かち合えなくなってしまえば、別な場所を求めるしかない。また、人々を拒否して閉じこもってしまうしかない。
それは、「病理」なのだろうか? 何かを敏感に感じる取ること、人とは同じになれない普通に過ごせない日々を辛く思ってしまうことは、「病理」に過ぎないのだろうか?
人は人に優しくあると思う。なのに、時々優しくない。
そんな使い分けの人生が、見掛けだけの優しさが、他人への思いやりが他人の打算に過ぎないとさげずむ思いが、私を支配しようとするならば、私は断固それを拒否する。その頑固さが私の人生をめちゃくちゃにしようとも、やっぱり、私が培って来た「感情」は正しいと思うし、それを正しいと思い続けることこそが、私にとって正しいことなのだ。
だから、どんなことがあっても曲げることはできないし、曲げないことこそが、私の芯(心)ならば、私はそれに従おう。
干刈あがたは故人になっている。
二人の息子は生きているのだと思う。
したたかに、強く、信ずるところを守って、生き抜いて生き抜いて生き抜いて、伝えたいことを伝えているのだと思う。
update: 1997/06/02
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