書評日記 第313冊
エッフェル塔 ロラン=バルト

 バルト流の《記号学》への読み解きの話。
 「表徴の帝国」を読んでいるので楽。楽しさを味わえる。
 揶揄するという意味で比較するわけではないが浅田彰よりも数段上。むろん、それは私の嗜好がバルトの方に沿っているからであって、学生運動じみた浅田彰の弁論形態が好みであればそれも良し。
 求むるところは《記号学》であって記号学ではないのだから、《記号学》自身を体験することにより、同一の地に訪れることができるはず。
 ひょっとすると、浅田彰が日本人であり、自分と同じ日本という国で育った(時代が異なるにせよ)ことが自己=同族嫌悪の感情を呼び覚ますのかもしれない。また、母国語が同じ日本語であることの安易さが双方に残っているために、浅田彰の云わんとする《記号学》が浅田彰の云う記号学に留まっているだけなのかもしれない。

 ウンベルト=エーコ「記号学1」を読み始めていることもあるし、自らの現状の不遇から脱出するために《幸福》の典型=記号を自分に取り戻す作業を行っているから、本音を吐かずさらりと云い退けることによって読者に思考を強いるバルトの著作が、私にとって心地良いのかもしれない。
 むろん、「感情さえも記号である」という文章に対して安易な同意は称えたくないものの、自分の中では《感情さえも記号である》のは確かなことで、それは「イデア」に通づる。

 愚昧な解説であるものの、「解説」という形式をとる以上、方法がないかもしれない。
 ……しかし、苦笑せざるを得ない。
 『エッフェル塔を様々な角度で観察することは、エッフェル塔の形を変える』
 これは解説の一文であるが、こういう文章にわざわざ赤ペンでラインを引く必要はない。本文を読めば明らかになる事実。それに対して、赤ペンを引くことによって、記憶を阻害する。記憶せねばならない事実、または現象に対して、考察することを拒否するのは作者への冒涜ではないのか?
 結局のところ、さまざまな用語を覚えることによって用語に溺れている。用語を使いこなすことをせずに、お題目を唱えるだけにすぎない。客観視をしているようで観察を忘れている。自己反省の繰り返し無しに行われる観察=考察は《観察=考察》ではない。

 意味するところのもの。もうひとつ突っ込めば、本質であるところのもの。
 むろん、意味するところのものを言葉で説明する時、言葉=書かれる言葉=エクリチュールが《意味するところのも》から遊離し始める。
 当然、両方を獲得できないのは、時間と場所を特定できない量子力学=現実と同じことで、これはエーコにいわれなくても解かる。

 エッフェル塔と聞けば、パロディであるところの東京タワーを思い出す。
 その思考の過程が、私にとって《常識》であるに過ぎない。
 それが他人=私以外の者の非常識であろうとも、私にとっての常識である限り、殉じるべき対象は私自身の常識である。
 ひっくり返せば、二人称の《君》であるところの常識は、私の常識ではない。
 しかし、《常識》であるには違いない。これは自明のこと。

update: 1997/07/03
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