書評日記 第321冊
多分、私ほど、この作品の中に出てくる「持来(リトリーヴ)」の意味を理解している者はいないと思う。
天の配剤に感謝したい。
誰しもがひとつのケーケンをする。ケーケンが「経験」になるのは、その出来事から何かを学んだ時であって、何も学ばなかった時は「経験」はケーケンのままでしかない。
繰り返される「持来」の日常の中で、一度めは「経験」するためにケーケンする必要がある。
だが、二度めは、ケーケンするかどうかは別のものになる。
一度めの関係と二度めの関係は違う。
一度めは初めてのことだから、ケーケンなのか「経験」なのかさっぱり区別がつかない。だから、若い頃にはケーケンをたくさんしなくてはいけない。そして、いろいろ「経験」を積み重ねる必要がある。
二度めは一度めにケーケン済みなのだから、「経験」を確かめる余裕がでてくる。ケーケンの中に含まれる別なるケーケンから別なる「経験」を掴みとる、即ち、一度めのケーケンであってもいいし、凡庸に何も考えず目の前にケーケンに従ってもいい。
だが、やはり、ヒトは「人」だからこそ、ケーケンの中から「経験」を掴みとって、ヒトは「人」になるのだと思いたい。
実のところ、この作品を私が読んだ時は、今だケーケンをしてはいなかった。
そして、今、ケーケンをした私が、この作品に再び出会うということは、何を《意味》しているのだろうか?
まあ、少なくとも、私は二度と同じ過ちは繰り返さないし、二度同じことをするほど暇ではない。
しかし、一度はケーケンする必要があることを知っているし、また、ケーケンからしか学べない「経験」であるならば、それに身を殉じさせることが愚かなことだとは思っていない。
愚かなのは、ケーケンから「経験」を学ぶことを忘れてしまったり、ケーケン自体を敬遠してしまう人達に過ぎない。
『其処に無いことを知るのは、在ること知って、初めて、認識することができる』
一番嫌なのは、自分をイイヒトに見せるヒトで、一番危険なのは、自分をイイヒトだと思っているヒト。
そんなヒトは「人」にはなれない、と私は思う。
update: 1997/07/21
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