書評日記 第332冊
生前の出版された最後の著書。ユングは1961年に没。
夢の中に出てくるUFOの象徴をひとつずつ解説していく形式。この辺は、「分析心理学」と同様だと思う。
フロイトは「精神分析」という用語になるのだが、「分析」の位置が前と後ろでは意味が違ってくるのだろうか?
この著書で前提となるのは「UFOは物理現象でない」ということで、集団幻視ということになる。あとがきにもあるのだが、日本では集団幻視はあまり馴染みがないものだが、西欧のキリスト教圏では幻視は当たり前(?)ともいえる現象になる。身近なところでは「後光」という現象だろうか。
原始からの記憶=遺伝子が人に幻視を見せる、というのが根底になる。共通の歴史的な過去を共有しているから、幻視も共有することができる。UFOにおいては、「円盤状のもの」というものが人の中に住み着いていることが、UFOを集団幻視させる要因となっている。
何故か、こう書いてしまうと宗教家のそれに似てくるのだが、宗教であれ真理であれ、信ずることでしか信ずるものを見ることはできない、というジレンマを抱え込んでいるので、仕方がない。ただ、妄信的な宗教と違うのは、信じるべき根底があることを確認した上で信じるという行為を行うことに心理学の科学性がある。単純に統計学に還元できるものもあるのだが、それは、人工知能の研究の中でも「AI」と呼ばれる分野が既知のもので構成されることと等しいかもしれない。ユング心理学が単なるオカルトと違うのは、既知のものと未知のものの距離が一歩といえるほど接近していることではないだろうか。それは、宗教的な飛躍を必要とする悟りとは違って、誰もが歩くことの出来る誰もが到達することのできる道筋が存在することではないだろうか。
ただ、錬金術的な用語に引かれてしまっている部分が残念ではある。3や4という数字が、神話的な意味を宿すものだとしても、その説明において西欧の神話を直接持ち出してしまうのはどうか、と思う。例えば、「3」という数字が夢に出てきた時、「三位一体」という原型を導くことは容易なことではあるが、そもそも「三位一体」という用語が歴史的背景と分離した形で現在に存在している以上、いきなり「3という数字は三位一体に通じる」としても、論理的な飛躍であるという見方を免れないのではないだろうか。
もっとも、歴史的な重みを背負ったところの「三位一体」という用語を使うならば、人が共有する部分としての「三位一体」が浮き上がることになるのだが……。
だが、現在の脳医学によれば、養老孟司の語るところによれば、脳は記号を持っているだけに過ぎず、目からの情報すべてを脳に染み込ませているわけではないことが解明されつつある。それを合わせて考えれば、脳が目の前の現象を解釈する時に使う「記号」は、すなわち、ユング心理学の歴史的な「原型」を示していることが解かる。
実は、この辺、思考実験に過ぎない危うさを持っている。
だが、アインシュタインの実験室が胸ポケットの万年筆であったと同様に、全ての現象は全て頭脳の中から発見されるだけなのではないだろうか。
update: 1997/08/04
copyleft by marenijr