書評日記 第341冊
「村上龍批判序説」用。
政治経済小説と銘打っている割には、個人(ゼロ・トウジ)が主張され過ぎ。多分、「我が闘争」を通読していないのではないか。村上龍が「ファシズム」を主張するには、彼のスター性を帯びた生活は恵まれ過ぎているような気がする。ある意味で、小説家として甘やかされ過ぎた状況が、村上龍という作家・人間を潰しているような気がする。
あとがきにて『経済書を数百冊読みました。参考文献としてこれらの書籍を羅列するのを楽しみにしていました』という科白は、この小説が「お勉強」の結果でしかないことを示している。また、この小説に頻発する経済用語(しかもあまりにも基礎的な用語の羅列)が政治経済を知らない人が生半可な知識で書いたものでしかない稚拙さが感じられる。
彼を絶賛する読者は、知識人ではない。良くも悪くも知識人はとある専門知識とそれらを日常へと結合させられる能力を持っている。ベストセラーをただ拝領するだけの読者(特に女性読者)は、この作品の中にある誤りに気付かないと思う。また、彼を絶賛する評論家達も同様に彼の小説の中にある「ファシズム」を主張する時の弱さ、そして、彼の「お勉強」の成果でしかない「愛と幻想と―」を批判することはしない。
職業的な評論家であろうとするならば、ベストセラー作家・村上龍を批判するのを避けるべきであろう。それは、ベストセラー作家は所詮現代のメディアの中の幻想の産物でしかないからである。
時系列で読み進めているので作家の彼がこの場所で止まるのかわからない。少なくとも「イビサ」にはひとつの村上龍らしさがある。
あくまで「お勉強」の成果としてこの作品は捨て置くべきだろう。
村上龍はインテリゲンチャに非常なコンプレックスがあると思う。知識を知恵に昇華させる能力が乏しいのかもしれない。ただし、感覚へと直結させる能力は認めることができる。この辺は「時流」というものがあるので、現時代的な評価は下しがたい。
update: 1997/08/17
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