書評日記 第353冊
中上健次
文春文庫

 書評日記を再開することにした。インターネットとは全く別にして書くことにする。
 
 中上健次の小説を読んで第一に思うのは「生々しさ」である。
 彼の小説の中に出てくる女性はすべて子を孕む。孕むという事実は男女がセックスをしてできる結果なのだが、世の中の云うところの「子供は愛の結晶である」という幻想(?)は微塵もない。ただ精子と卵子が結合したところにできるのが子供であり、女性はそれを10月10日孕み、そして産み落とす。そういう動物的な要素が彼の小説の匂いだと思う。
 セックスを全面に出した小説家としては、村上龍があるのだが、彼の場合は子供という生々しいものは出てこない。本当の意味で風俗産業なり社会的なマゾヒズムなりを追求すると豪語している(と私は思う)割りには、村上龍の場合その決定的な部分が欠けているように思える。
 無論、流産という事実、堕胎という事実、妊娠という事実、を「夢」である小説の中に盛り込まなければいけないという理由はない。だが、中上健次の捉えるところの男女の関係は「孕む」という用語に付き、その生活臭というものは並々ならぬものがある。それが、彼の現実味というものを感じさせ、私の中にある共感を呼び起こすに至る。
 大江健三郎の描く性は、ある意味で上品であり、また、障害児・光を対象にしているところから、単純な性とはまた違ったところに至っている。私にとって、大江健三郎の小説は宗教味を覚える。キリスト教的ではあるけれども、決してキリスト教ではない。そういう意味では、遠藤周作がキリスト教作家であることを全面に押し出し、キリスト教の中に著者を含ませたとことに対して、大江健三郎は、無神教でありつつ、自分の中に宗教味を帯びたものを抱えることになる。内なるところに自分の信ずるところを得た、ということで、大江健三郎の小説は普遍性を帯びる。尤も、遠藤周作や加賀乙彦がキリスト教徒だからといって、キリスト教的視点でしか世界を見ていないと野卑するわけではない。しかし、キリスト教が宗教にひとつの派であるところに比べれば、人が人を信ずるところの神秘さというものを自分の中で抱えることができるという部分で、私の持つ科学信奉と同様のものがあるのではないか、と共感してしまう。

 中上健次の小説に戻る。
 山田詠美と水上勉が誉めるように、「中上健次は小説が好きで小説家になった最後の小説家」かもしれない。ただし、この科白は、山田詠美や水上勉がそうでないことを意味している。彼等はそれに気付いているのかどうか私にはわからない。
 ただ、現在の小説家達が「最後の」を強調するほど終焉味を帯びているわけではない。そもそも「終焉」という用語が頻発される世の中になっているように民衆は世紀末というものに憧れつつある。それがマスコミの意図であろうと、単なる世紀末思想の慢性化であろうと、人々の中に「これで一つの時代が終わる。そして何かが始まる」という終末思想と次へ何かへの期待感が染み込んできているのは間違いない。
 当然、大衆という程、ひとびとはまとまりを創らなくなり、だぼだぼのソックスを履きながらも、ぺったりとした細身のセーターを揃って着つつも、皆それぞれの生活を送っているという排他感と独自性を保っている。端から見れば、それは分裂してしまっている故にひとまとまりのような気がする。渋谷の街はそんな荒廃さがある。
 それに対すれば、「岬」はひどく人間味溢れ、誰もが誰もにか関わろうと必死になる。いや、関係を崩そうとしているのだが、より強く関係というものを感じてしまう、絆の強さを感じる。それが、生々しいという感想に至るのではないだろうか。
 家族、血筋、血縁といった部分を強烈に醸し出し、鼻がひん曲がるほどの腐臭を帯びた日本の社会というものを、日本の田舎の絆というものが全面に出て来る。
 ただ、現在の都会に出てみれば、隣人がどうあろうと過ごせる、または、隣人を気遣わなければならないと思っているのかどうか解からない不気味さのまま、それが当然として生活をすることができるようになってしまっている。人は決して人以外のものではない、という確信が薄れてしまっているのではないだろうか。それは、私だけの幻想なのだろうか。
 
 どこか理解を超えてしまう、また、隣人のことを考えるのを止めてしまったが故に理解不可能に陥ってしまう世の中になってしまい、人々は新聞を賑わす猟奇的な事件がみずからの隣で起きることを密かに期待しているのではないか、と思える節がある。自分が理解できない人達を一足飛びに拒否してしまい、理解しようとはしない。たくさんの人達がいるのだから、それでいいではないか、という内輪の中に身ごもる。
 そんな蛸壺と化してしまった人達の方が、他人に対する妄想が大きいのではないだろうか、というのは、私の思い違いだろうか。人の迷惑という言葉を知らず、迷惑を掛けているかどうかということも気付かず、気付こうとせず、また、周りの人はそれを迷惑だと思わず、関わりたくないと思いつつ、世代の違いだと思いつつ、決して相互理解をしようとはしない。
 果たして、人は人に対して関わろうとしているのだろうか。あたかもTVを見るように現実の出来事を眺めてはいないだろうか。ワタクシには関わりないところにある紛争だとか暴動だとか反乱だとか死だとか絶望だとか孤独だとか、そういう考えに浸ってはいないだろうか。
 
 中上健次は、筒井康隆に文芸界の脱退を勧誘した。
 山田詠美に声を掛け続けた。
 赤井秀夫と写真を撮った。
 そういう渇望の中に中上健次は置かされていたのではないだろうか。どういう場合にも埋もれたくない自分というものを感じつつ、どこかドンキホーテ的な言動をして、周囲の目を相手の目を向けさせることしかできなかったのではないだろうか。
 そんな人との関係への渇望、そして、人間の肌という生々しさを中上健次の小説には感じる。

update: 1997/10/27
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