書評日記 第357冊
あとがきによれば、現中国政府は文化大革命を全面否定するという見解を出しているそうである。となれば、1960年代に紅衛兵であった著者達10代の少年少女達の行動は如何なるものだったのか、ということになる。ろくに勉強もせず、また、勉強をさせてもらえず、現在に至る40から50歳の彼等に与えられた視線が結局のところ「否定」であったというのは、あまりにもむごすぎるような気がする。ただ、人はどんな境遇であろうとも人として生きている限り、また、一人の個人として人生を生き抜いている限り、決して「悲惨」という言葉のみに打ちひしがれるほど弱くはないということだろうか。少なくとも、ビートルズを知らずに過ごした紅衛兵ではあったが、それは中国の外の些細な出来事であったのかもしれない。
筆者・梁暁声が紅衛兵になり天安門で毛沢東の謁見を受けようと北京へ旅行する。そして帰ってくる。その2ヶ月間の旅行での経験と、帰ってからの故郷のごたごたが描かれる。
紅衛兵を主題とした映画を見たことがある。毛主席の謁見の練習のために毎日毎日行進の練習を続ける映画であった。数々の優秀な紅衛兵達が集められ宿舎に寝泊まりして毎日毎日練習を重ねる。いじめもあり、仲間割れもあり、死人も出る。逃亡者も出す。しかし、行進の練習を強要される。毎日、数十キロを行進する。
そして、最後は天安門の前を腕を振って行進する。ほんのひとときだけの幸福(?)のために行進の練習を行なう。それが虚しいのか栄光であるのか、よくわからない。ただ、やっと終わったという疲労感が残る。
紅衛兵に毛沢東は支えられ、文化大革命はまさしく大革命へとのし上がったような気がする。一体、何をしようとしたのかわかならない。ただ、中国の中にある虐げられ続けた人々が紅五類としてあがめられ、黒五類を駆逐する。なにもかも破壊する。親も兄弟も関係なく、とにかく弱いものが強く強いものが弱い時代であった。子供が親を叩きのめし、親は子供の前に打ちひしがれる。儒教の教えの中にあったものは一体どこにいったのかわからないが、紅衛兵はひたすら毛沢東を後ろ盾に街を破壊し尽くす。伝統芸術も美術も工芸もなにもかも破壊の中に捨て去ってしまおうとする。
中国の抱えてきた反抗期が吹き出したものだといえば聞こえはいいかもしれないが、それが中国の近代化を一層推し進めることになったといえば聞こえはいいが、その時代に生きて来た人にとって、すべては狂気の十年間であったに違いない。
ある意味では、戦時中の日本のようなものだったのかもしれない。皆が先勝にうかれつつ、それでいて貧困に喘ぎつつ、政府を疑いつつも政府にかしずきつつ、人の噂を信じつつも目を耳をふさぎ、ただ盲目的にひたすら戦時の日本というものに耐えてきた、ということと同様なことかもしれない。
頭が固くなって世間に埋没するしかなかった大人達は次々と子供達を特攻兵として仕立て上げて前線に送り込んだ。むろん、それは今となっては悲惨なことではあるし、当時はそうせざるを得なかっただろうし、また、特攻兵となって死んだ若者達を思えば、「特攻」という思想の犠牲になったことを悔やむだけではいたたまれないものもある。だから、全面的な否定なぞできないのかもしれないが、決して他人を死に追いやることをしたくないのならば、自分の身の安全を確保するゆえに人の死に目をふさぐようなことをしたくないのならば、私達は特攻の中に散ってしまった命というもの、もっともっとよく見詰めていかなければならないのではないだろうか。
そういう意味で、中国政府が文化大革命を否定してしまい、その犠牲になってしまった紅衛兵達を否定してしまうことで、同じ過ちを看過することになりはしないのか、と私は危惧する。
だが、最近、文化大革命をテーマにした映画を多く作られているのを見れば、決して忘れてはいけない、くりかえしてはいけないという危惧を持っている人達が多数いることにひとつの安心を覚える。
「死刑囚 永山則夫」の解説で、やたらに小説であることが強調され、また、この「ある紅衛兵−」も小説であることが強調されているが、私は事実を事実のまま描くことは、それが多少の過ちを含んでいたとしても一人の目から見たもの、考えたもの、解析したもの、として、ノンフィクションであろうとフィクションであろうとあまり関係ないような気がする。果たして、ノンフィクションが事実を記述したものだから、事実そのものであるというのは間違いで、ノンフィクションを書いた筆者の思考形態が介在している以上、とある視点からの考えでしかないことに気をつけるべきだと思う。
とすれば、個人から歴史を見、個人から世界を見分する時、いかに自分に素直であり得るか、そして自分の中にある真実を見詰めること見つけることができるか否かという姿勢が一番重要だと私は考える。
だから、フィクションであるから、その小説の中に描かれているものが本物ではないとは思わない。むしろ、紅衛兵・梁暁声が見た文化大革命が描かれているという事実があるのみだと思う。
ただ、そういう意味では梁暁声の描き方は彼独自の矛盾を孕んでいるような気がする。それは、彼自身の青春小説だからなのかもしれず、その中にあるのは彼の甘美な想い出だからなのかもしれない
update: 1997/11/17
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