書評日記 第359冊
いろいろな雑誌に掲載された批評がまとめられている。
現在の日本の批評家といえば、この柄谷行人・蓮實重彦・浅田彰・吉本隆明・中沢新一がいるが、私は柄谷行人に一番なじんでいるような気がする。批評家として一番ノーマルな人ではないかと思う。
この本のどこだったかに、「科学」という用語がでてくる。理系の私にとって科学的推論というような科学の手法に則った論理性は拠り所になっている。その点で、柄谷行人は自然体として物事を見て本質を推論する能力に長けているし、また、それを意識的に行なう。この姿勢自体が「科学」の根底になる。
むろん、文系的な発想の転換も必要になる。常に論理性の中で動くだけではひとつのレベルの中でしか作業をすることができない。そのレベルを超えるために自由発想、つまり、柄谷行人の云うとろこの「異種混合」の思想が重要になる。
やたらに「反復」を連呼していた「探求1・2」の頃と違って、「批評とポスト・モダン」はそれこそ自由闊達に様々な事象に対して批評を加える。実のところは、それが批評であるかどうかはわからない。ひょっとすると彼好みの思想を披露しているだけのような印象を引用の多い文章の中に見ることができるが、その様々な引用を組み合わせ、そのひとつひとつに彼なりの解釈を加え、その解釈が普遍性を帯びるような論理性に注意して語る部分が、私が柄谷行人を好む理由ではないだろうか。だから、「反復」の文章がやたらに反復を意識し過ぎて「もう解かっているから」といわれそうなげっぷの出る文の羅列に過ぎないとしても、彼は彼自身のためにそうせざるを得なかったのだろう、という同情を私は感じることができる。なぜならば、思想爆発の時期というものはそういうものではないか、と今の私は実感として感じるからである。
この本の内容で目を惹くのは、中上健次への言及、梶井基次郎と「資本論」の組み合わせ、小林秀雄への彼の意識、であろうか。これらの作家・作品・批評家は彼にとって特別なものを内包しているのではないか、と思うくらい意識的に繰り返し言及されている。
もちろん、批評家であろうとも数々の文章がかの人自身の研究態度・目的として個人的な趣味の域を出るものではない、ことぐらいは私も知っている。また、批評家はそれを超えた形でなんらかの一般性を持ち得ようとしている(これは小林秀雄への視線からも読み取れる)姿勢・意気込みがあることぐらいは知っている。要は、その2つのバランスを如何にして持ち続けていくことか、ということだろう。大衆がいなくては批評家になり得ない。大衆に解からないかの人以外に理解できない批評を繰り返したとしても職業として批評家になり得ない。それらの大衆への媚び、所謂、マスメディアが持っている必要悪に晒されながら批評家は批評を書き続けなくてはならない。その意識的な部分に於いて、「批評とポスト・モダン」の中にある批評を書いた時期の柄谷行人はひとつの模索を続けていたように思える。むろん、その本格的な模索が「探求1・2」において為されているというのがホントのところだろう。
法政大学の教授という肩書きの中で「柄谷行人」という人物を想像するにしては、彼は随分その肩書きから自由なような気がする。いや、その「教授」という地位があるからこそ自由に書くことが出来、そして、その肩書きを意識的に無視することによって、彼は魅力ある批評を書けるのではないか、と私は思いさえする。
つまりは、彼はかつての文学界・批評界で得ることのできた安定したカリスマの地位を持つ小林秀雄と同等の安定感を持つことができているのではないだろうか。それは、吉本隆明の文章に頻発する大衆への媚びと反発という批評家としての過剰な意識ではなくて、より柄谷行人個人で足り得るところの生活の安定も含めて、その中で数々の小説に出会い(小説は嫌いだと述べる柄谷行人の姿を私は好む)、社会現象に出会い、ひとつひとつの「異種混合」を自覚して積極的に求めていく姿が彼の「文体」を作り得ているのではないか、と思う。
それは、「誰に語るのか?」という根源的な問題を孕んでいる。一体こんな小難し(そうな)文章を、日常生活に役に立たない文章を、余剰にしても余剰過ぎる思想について語る文章を、誰が求めるのだろうか、という大衆への問題がある。だが、彼は「良い読者」を得ているのだと思う。頭の弱い読者ではなくて、頭の回転の活発な読者を得ているのだろう。
とある場を与えられて、それを生かすために物事をこなす沈着さ、それが「孤独」の中の寂しい・厳しい作業であろうとも、それすら楽しみに変えてしまう独立への楽しい想像が柄谷行人という人物の好ましさを作り得ていると思う。
update: 1997/11/23
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