書評日記 第369冊
女遊び 上野千鶴子
学陽書房

 全頁「おまんこ」が描かれているような感じがして、うぐっ、となってしまう男性は私だけではないと思う。1988年という時期が、男女雇用機会均等法の成立まもなくということと、その直後に日本バブル経済がはじけてしまって新卒女子大生の雇用率が40%をあっさりと割ってしまっていたという現実を考えると、この本の中に出てくる多少の「気楽さ」というのは否めない。女性の社会進出の場は随分と遠ざけられてしまったような気がする。むろん、「社会」に出ることだけが自己実現を為す唯一の方法ではないのだが、それを求める人達には唯一と云える、というところだろう。
 
 ウーマンリブ、キャリアウーマン、新世代、という経緯を得て常に最前線を闊歩するところに上野千鶴子はいる。果たして、当時30歳半ばであった彼女が現在40代に入り「男性文学論」を共著した今という時期に同じ姿勢を保っているかどうかはわからない。しかし、少なくとも結婚を軸とした人生設計を作らない姿勢は一貫して保っている。それが、どのような内部的な葛藤があった(または無かった)にしろ、老人問題を考えるのではなくて老後問題を考えるという目は変らないらしい。
 
 恋愛をするにせよ、セックスに至るにせよ、結婚という契約を交わすにせよ、誰でもそれに対する「幻想」というものを持っている。この幻想が一般的なものであるか否かは別として、少なくとも未だその現実を知る以前(もちろん、知ってからも)の中では人はその個人的な経験の中でしか自分のスタイルを掴むことができない。いわゆる、恋愛小説・青春小説・エロ本の類、巷のゴシップ雑誌・TV番組がその教本になっていることは間違い無い。一体、どの教本を手本としてその後の場面場面に応対していくかは、偶然に寄るところも多い。ただし、一定の家庭環境、両親の干渉、子供時代に住んでいた場所、通っていた学校、その時の先生・友人、などなどが個々の認識の違いを生み出していることは確かだと思う。その個人的な認識がうまい具合に「世間」にマッチするのか、それとも別なところに価値観を見出して突っ走ってしまうのか(それが良い悪い関係なく)、が人生を「楽しく」する上で分岐点となるところだと思う。
 もちろん、こういう考え方自体も私個人の私見に過ぎない。だが、その私見に過ぎないものが一般性を帯びるか否かということは全く別物であり、また、世間に融合していくところの一般とは違ったところに価値を見出し始めた時、本当の意味での「個人主義」を支える根底をどのように自分の中で保っていくかが「楽しい」生き方をする上で不可欠である、ということだと思う。
 
 「女遊び」は上野千鶴子が「女」であるという立場を終始一貫して保つ。それは、男性である私には介在でいない分野であるにも関わらず、一方で、そういう人がいることに非常な安心感を持つことができる。それは、「性」というものが決定的なものであればこそ、妙に相手の立場を理解したと思い込むことは危ういと私は感じるからである。だからと云って「あなたはあなたなりに生きているから、私は私なりに生きる」という世間風を吹かせてしまう排他的な男性社会とは違って、協力しあうべきところは協力し、認め合うべきところは認め合い、違いを認識し、だからこそ、それぞれの価値というものを理解することができる、という女性性としての「共感概念」というものである。これは上野千鶴子自身も言及している。
 
 かつてのウーマンリブの闘士が「闘士」とされたところと違って、闘争や戦闘の中に自分の道を見出そうとするのではなくて、もっと身近にあるところに自分と社会との関わり合いを求めていく、ということだと思う。
 これがジェンダーとしての「女」社会というもの。

update: 1997/12/09
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