書評日記 第375冊
岡崎京子の第二作目。最初は『バージン』という作品だそうで、二番目だから『セカンド・バージン』だそうだ。題名に違わず、34歳の母親の恋心の話。
岡崎京子は34歳よりは若いと思う。だから、年上の女性として「母親」を描いたのだろう。だが、17歳の娘よりも上であり、当然、11歳の娘よりも上であろうから、その中間にいてかつての自分の姿を描き、自分の母親の姿を描いたものだと言える。
私自身、30歳になろうとしている。私自身が高校生だった頃、30歳という年齢はとてつもなく大人の年齢であった。もちろん、その上に40歳、50歳、60歳と控えているのだが、それほど「大人」が分化していなかった。
実際、なってしまえば何の変哲も無い自分の歳があるだけで、いろいろなことを見聞きして知っているわりには、いざ行動しようとするとうろたえてしまう自分がいる。だが、「学生ではないのだ」とか「高校生のような子供ではないのだ」という自意識に支えられてなんとか大人らしい体面を保とうとして必死になっている自分がいる。それが、本当の子供とは違った30歳という年齢なのかもしれない。
世間体、世間ずれ、世間からの目、世間としての常識、という「世間」の中で様々な評価に晒されて人は日常を過ごしている。もちろん、「世間」という現実があるわけではなく、それは情報社会の中の幻想であったり、TV番組のがなりたてる理想であったり、奇妙な一般常識であったり、自分とは違った価値観を謳歌する世間の人達であったりする。
いろいろな社会があるのだから、いろいろな居場所を求めて良い。それが、滑稽味に見えようと真剣・真摯であれば心ある人には微笑ましく見えるものである。だから、私はこの漫画の母娘が微笑ましく強い存在に見える。
現実なんてそんな夢のように転進するわけではないけれども、いそいそと心華やかにする日々を送ることが出来るほどには余裕がある。一歩でも二歩でも自分の立場を客観的に見てもっとたくさんの可能性を求めるのもひとつの情景ではないかと思う。
巷のハッピーエンドとは程遠い結末になるのだが、それほど悲しいわけではない。西村しのぶ「美紅・舞子」のような結末は、若いからこそ見れる未来なのかもしれないけれども、誰もが「若い」のであれば、そういうことなのだと私は思う。
多分、これは34歳という歳が早婚であれば高校生の娘を持つに至り、結婚していなければ「そろそろ」と考えるキャリアウーマンである差を、現代という社会が抱えているおおらかさを示しているのかもしれない。もちろん、上野千鶴子のパターンもあるということ。
update: 1997/12/11
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