書評日記 第394冊
自虐の詩 兼田良家
竹書房文庫

 「人生には幸でもなく不幸でもなく、意味がある」という科白が逸品で、それを芯から受け止めるためには、上下2巻分の時間が必要だったのだと思う。
 週刊宝石に85年から90年までの5年間連載されていた。ギャグ四コマで何ができるのか問われれば、何もできないのかもしれない。四コマ漫画は、小説や大河ドラマや長編小説とは違ったものを求めるのが普通であろうし、毎日の娯楽の部分を埋め草的に使われるのがオチかもしれない。
 もちろん、吉田戦車や朝倉世界一のように不条理漫画として先駆(それが実質的な先駆であろうとなかろうとは別として)に走ってしまうのも良いだろうし、実際に90年代の四コマ漫画はそのような流れを受け、今(98年)に至っている。
 だが、何かを創造しているときには、普段は気付かないけれども、自分の内部と自然体で向き合った時に、何かを悟り始めることがあるのではないか、と私は思い始めている。それが、昨今の「やさしさ」だの「愛」だのかもしれないのだが、そういうスローガン的な用語ではなくて、もっと本質的なもの(「本質的なもの」という言葉自体がスローガン的であることを恐れずに)が何かを創るときに滲み出てくるのではないか、という気持ちが私にはある。
 それは、個人的な才能を伸ばそう、という形で様々な「才能」を専門要素として他人とは違ったものを伸ばし、それを生活の糧にしていこうとする現代社会の中で、「才能」という社会を中心とした幸福の計り方ではなくて、もっと個人的な体験として、自分の生きていることの意味を問おうという姿なのかもしれない。また、自然体として、兼田良家が5年間書き続けてきたギャグ四コマという作品が、ここに至った、という事実が私を勇気付けくれる。
 だからといって、すべての四コマ漫画がこのようなスタイルをとるとは限らないだろうし、既存の四コマ漫画とは違った繋がっていくストーリーばかりが、唯一の表現の仕方ではないのは確かなことなのである。

 私が感極まらざるを得ないのは、この文庫本が借り物であるという事実。読者の目と批評の目と作家(志望)の目を同時に持たねばならない私は、「ああ、おもしろかった」と返す単純な言葉を失いつつあるのだけれども、何かをひどく考える込みひねり出す前、何よりも「人生には意味がある」という形で完結する『自虐の詩』に私は強い感動を覚える。
 それは、最後だけを取り出してしまえば、陳腐といえば陳腐。当たり前といえば当たり前。ハッピーエンドにならざるを得ないハッピーエンドなのだけれども、そこに至るストーリー(四コマ漫画なのに!)と5年間という時間と、それを描き続けた兼田良家という漫画家と、それを面白いと思った彼女と、それを私に貸してくれた行為というものは、一体何を「意味」するのだろうか、ということを私は素直に考えざるを得ない。むろん、私がそういう時期である、ということなのだろうけど。
 
 「生まれてきた」という連呼は、心理学的に分析してしまえば兼田良家の再生期を意味するのだろうけども、私個人の体験として一連の流れには必ず意味がある、ということを噛み締めていきたい。

update: 1998/1/18
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