書評日記 第397冊
著者・瀬名秀明が『パラサイト・イヴ』を書いた時点では博士課程の学生であった。現在は社会人として『BRAIN VALLEY』を書き挙げるに至る。
理系学生であった彼にとって3年間のブランクは当然なのかもしれない。理系特有の技術要素が詰まった形でのSFチックなホラー小説は、現在の社会には受け入れられる要素を十分に持っている。だから、話題作として評判にされてもおかしくはない。
だが、私が杞憂してしまうのは、彼が彼自身の作品に描く時のスタンスのあやふやな部分だと思う。
瀬名秀明は、大江健三郎や安部公房のように小説の中に自分を見つけるタイプではないのかもしれない。だから、ぽちぽちと発表される小説(または書かれる小説)の中に個人的な解決方法を追求しなくても、娯楽作品であり、かつ、ちょっぴり知的要素の含んだ現代ホラー小説を書いていく、ようになっても彼自身の生活は良い意味で変化しないものと考えられる。
これは、「どうして小説を書くのだろうか?」という問いに対して、実際描かれたものに含まれる作者の解決が、無自覚なところで作者自身にフィード瀑し始めた時、一体、彼、乃至、彼女は、どうするのだろうか、という危惧である。
上下2巻という大作(?)である『BRAIN VALLEY』は、その分量に見合うだけの内容を持っていると思う。それが理系的な知識の羅列とSFちっくな知的遊びの為したものだとしても、それなりの内容を誇っていいのかもしれない。それがSFという「ジャンル分け」に甘んじていれば、という話だとしても、である。
だから、ホラーなりミステリーなりSFなりのジャンル分けを外してしまった時に、彼の小説はどうなのか、と考えてみて不安にもなる。しかし、ポストモダンとしての現代があり、どうにも混沌としてラベル付けができない現代社会の嗜好の中で、このような小説の方が社会的に受け入れられ易いし、このような小説を売ることによって資本主義的に成功するのは明らかなことに思える。それが私個人の現代社会に対する不満であろうとも、現実社会は上滑りな知識を氾濫する情報として頭上を通り過ぎらせることに慣れているに過ぎないのだろう。そういうところで、私は、『BRAIN VALLEY』という小説の中に人間・瀬名秀明の姿が見えてこないところに不満を感じ、同時に、小説・『BRAIN VALLEY』そのものに満足を感じてしまう。
断片的(!)にしか描かれない各種の人物達に私は共感を覚えない。ゆえに私は瀬名秀明という人間に共感を覚えない。それは反発さえも覚えないつまらなさを意味しているのかもしれない。
ざっと流してみて、知識の組み合わせでしかない(特に私に於いては既存の知識が多数)ものに対して「啓蒙」されることもない。
ただ、ミステリーファンがミステリー小説を好むように、SFファンである私はSF小説を好むのだと思う。そういうところに、『BRAIN VALLEY』の面白さはある。
どういうスタンスで小説に立ち向かうのか(書くのも読むのも含めて)という問いは、問い自体も含めて人それぞれの答えを持っている、乃至は、持っていない。
だから、どういうスタンスであろうとも「好み」は自由であるのだし、小説を読む読まぬという自由も含めて、自分の「好み」を把握しておくことは大切であるように見える。
しかし、流通の中に模擬されるベストセラーが、かつてのベストセラーと違っていて上滑りの作品ばかりが氾濫する(ように見える)のは何故だろうか。そして、それを自覚しつつもベストセラーに流される自分を許してしまうのは何故だろうか。
妹尾河童『少年H』を買い、読んでいる途中だからこう思うのかもしれない。
ただ、『少年H』は、妹尾河童という人物が見える。これが、彼の歳ゆえだとするならば、瀬名秀明には決して描けない、ということが結論付けられてしまうのだが。
update: 1998/1/16
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