山の音 川端康成
岩波文庫 ISBNISBN4-00-310814-0
夏目漱石のような抒情詩。だが、ラスト――とはいえ、この作品は未完であるので、ラストとは言えないのだが――あたりに夢が頻発するのが川端康成らしさ、というところだと思う。老父・信吾の姿は、筒井康隆の『敵』の老いに対するものと同じ根底があると思われる。
いくつもの短編をくっつき合わせたように長編であるひとつの作品として『山の音』は成立している。登場人物または場面展開は、老父・信吾の周りに限定されている。だから、ふと彼の家族以外の者が出てくると、あからさまに「他人性」を主張して来て、ドキリとするのも無理からぬことなのかもしれない。
そんな、やや閉塞的な地域を主張しつつも、川端康成の文体はその狭さゆえに、内面に深く浸透してくる快さを私は感じる。むろん、『老獪』という言葉で表されるように、谷崎潤一郎がフェチシズムのみを主張したことに対して、川田端康成は「文学」という衣や「耽美」という履き物を揃えて、大衆の中に混じることができるほどには、彼の小説を特異なものにはしなかった。「年老いる」ことが誰にでも想像がつく現実であるように、中年から老年へ、または、青年から中年へと変遷する年齢という垣根と、世代交代という時代感覚が、『山の音』には含まれていると思う。
ただし、『山の音』を描いた時点で、彼は若い。50歳から55歳という年齢が果たして一般的に「若い」という範疇に入るかと問われれば疑問であると答えるかもしれないが、長く生きた、老人としての姿が心に残る私にとっては、50歳という年齢は「若い」と分類され得る。そう、私の父親が50歳だった頃、私自身が20歳そこそこであったことに言及されるのかもしれない。
老父・信吾が「年老いた」ところに居ること、または、年老いる場所にいることを思えば、だんだんと空虚と道理をわきまえてしまう、いや、そんなことは些細なことだったのだ、という諦念とも静観ともつかないものを身につけてしまう年齢=生きてきた道筋・経緯・経験の上にしか「年老いた」という形容詞は似合わない。だから、自分の家族や自分自身が年老いてしまった場所や時間にしか目がいかなくなって、外側の世界で起こる出来事が、まさしく「夢」のようになってしまう、目覚めてあるのは身内のみであって、どうあろうとも其の範囲でしかない居場所に安住することを拒まなくなる年齢というものがある。
となれば、房子の夫が行方不明になろうと、菊子が離婚しようと大して変わりないのかもしれない。未だ、二人が小さかった頃の家族に縮小してしまう信吾の世界は、とある意味で幸福であるのかもしれない。むろん、身勝手な幸福であるのだろうが。