書評日記 第454冊
あ・うん 向田邦子
文春文庫 ISBNISBN4-16-727702-6

 山口瞳が解説で云う通り、門倉修造と水田仙吉のプラトニックな友情物語である。男の友情というものは、互いに感情的な相手を必要としないところがある。とある現実があり、とある場所に居た人同士が、とある長い人生の中で友情と呼べるような時間を持ち得ることがある。
 向田邦子が描くように、互いに行き来するようになるのは、稀だと思う。だが、ひとところに長く居て、互いに20年来を過ごしていれば、それは腐れ縁という形で崩れないままに残るものだろう。
 私自身の場合を示せば、その時々に捨て去ってしまう人間関係があり、おそらく修復不可能であろう、または、修復する必要のない疎遠な関係を保ち、すくなくとも私自身がそう思っている限り、私の人生は他の人とは違って――と私は思い込んでいるのだが――孤高性を帯びた形で続いていくのかもしれない。
 
 べたつかない二人の関係、そして、水田の妻であるたみの存在。さち子の存在。君子や艶子の存在は、戦前の昭和初期にある漠然とした下町の雰囲気をそのままに残し、それが戦争が無ければさほど切迫したものにはならないと思われる、危うい平穏が示される。
 修造、仙吉、共にいっぱしの中年であり、召集を受けることはないだろうし、また、戦争という時代を通して利害関係として社会になじんでいく。それは、とある時代の不安でもあろうし、また、その時代に生きることになってしまった諦めでもあり、同時に、時代をうまくすり抜けようとする努力でもある。
 だが、誰しもに日常があり、あまりにも突発的なアクシデントにみえたとしても、実のところは水が其処に流れるように落ち着く場所と染み込む場所を欲している人の姿というものが見えてくる。
 それは、人は日常生活を営むからこそ、その人の住み得るそれぞれの時代に対して、「時代」には批判はできるのだけれども、時代に住む「人」に対して、どのようなことが出来るだろうか、という提起を向田邦子はしているような気がする。または、それを考える場と考えることを欲する共感を得ようとしているような気がする。
 解説の山口瞳によれば、「あ・うん」はもっと長く書かれるものをばっさり切り落として読者へと性急に提起する生き急ぎの感がある、とのことだが、私はあまりそうは思わない。
 確かに現在の中編・長編と呼ばれる小説に対して「あ・うん」はひどく短い。ただ、ドラマにして、人が動き、時間の流れに直してみて、現実を補って始めて作品としての形を成すような気がしてならない。

 「あ・うん」は向田邦子の傑作であろうし、夭折されている今となっては、これ以上の作品を彼女に求めることは出来ない。
 ただ、これほどリアルな小説は無いと私には思える。そして、複数の作品を書く、という時間経過の中からでしか、「あ・うん」は生まれなかった、と私は思う。

update: 1998/11/08
copyleft by marenijr