書評日記 第466冊
存在の耐えられない軽さ ミラン・クンデラ
集英社文庫 ISBNISBN4-08-760351-2

 この作品の魅力はまず冒頭にあると思う。
『永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた』

 『存在の−』が映画化されたのは大学の頃だったと思う。かなり話題になったはずだが、世間的に話題になればなるほど私はそれを毛嫌いする質であったので、映画を見に行くことは無かった。また、原作があることを知らなかった。
 単なる恋愛映画だと思っていた。当時、やたらに「愛」を声高に語る映画やテレビドラマが多かったので、その類かと思っていた。また、この小説の冒頭を読む直前まで、この本の表紙を眺めて、手に取るまで、そう思っていた。
 だが、「永劫回帰」で始まる文章を読んだとき、そして、数ページ読み進んでも人間が出てこない文章に私は興味を注がれた。

 心理学的に云えば「愛情と性愛とを区別できる人はすべからく分裂している」ということになるのだが、それも個人的な領域である、とすればそうかもしれない。「不倫は正しいか」という矛盾した科白がまじめに(?)論じられると同じぐらい、絶対的におかしいところから物語は始まり、正常なところに落ち着く。
 いわば、現実無視の想像の世界が勝っている若い頃は妄想は現実に容易に打ち勝ってしまうのである。互いが互いを想うことが普通なのではなく、不用意にみずからを貶めたり優越感に浸ったりする。それが当然のことだと狭い世界で思う。だが、エネルギーあふれる頃ならばこそ、釣り合いの取れる関係=日常生活であっても、擦り切れつつある精神は常に崩壊の危機に晒されている。そして、いずれ危機感に耐えられなくなる。妄想というドラッグが効かなくなってしまうのである。
 誰もがどこかでバランスを掴む時期がある。それが、二人という関係であれば、おのおのの心理的な要因・現実社会的な要因を含めて、落ち着くべきところに落ち着く。また、落ち着かなければ苦しむしかない。
 西洋的なロマンチック・ラヴを実現するにはセックスをしないことだ、と河合隼雄が云う。セックス・レスの夫婦が話題になるのも、それと関係があるのだろう。
 日本という国が、愛情と性愛を別々に扱って来た歴史は長い。『イマジン』で槇村さとるが言及するのも其れなのであるが、憎むだけでは疲れる。
 
 と、そんなことを『存在の−』の読後に考えてみる。
 いわゆる〈自分探し〉なのであるが、山田詠美が「でました。〈自分探し〉です」とステレオタイプ化させてしまうほど、ひとは物語を自分のものにしていないかもしれない。

update: 1998/01/16
copyleft by marenijr