諶容(センロン)は中国の現代作家。話は文化大革命直後、中年の眼科医(女性)が病床に附くまでの様子。そして、回復。1980年の作品。
文化大革命は、1966年から。
説明
国体が安定しないと個人はひとつの仕事に従事できない。文革の最大の悪影響は其処にある。と云う。文革自体が与える影響よりも、文革の時期にあって勉強をすることができなかったために世界の動向から必然的に遅らされてしまう。ただ、国に依存する個人の精神生活であるからこそ、国に残ることを大前提にして先行きを考える。
と、「文化大革命」と「諶容」をキーワードにしてインターネットを検索すると、
諶容と出てくる。
日本文学への固執を止めれば、売れる売れない突発的なベストセラーを産出する日本の風土から脱することができるのだろうか。日本語でしか書き得ないもの、日本に住んでいなくては書き得ないもの、と、日本の中でしか評価され得ないもの、同時に、世界的(とは云え、西洋なのだが)な評価を得られないもの、そして、世界的な評価を得られるもの、と、普遍性を追求するのか、それとも、身近にあるみずからが生きている場所である「日本」にこだわるのか。
同様に、諶容は「文革」から脱することは無いだろうし、他のタイプの小説を書いた時であってもふと気付いてしまう「文革」があるのだろうし、同時に、一番学問に対して貪欲であった学ぶことに対して無償の奉仕を行うことが出来た可能性を信じる若い時期において、それに適した環境を得られない文化大革命の時期は劣悪であった、と思う。
が、絶望の人生を生きるのではなく、また、絶望のままには生きることのできない「文革」の時代、そして、それ以後は、日本の「戦後」に似ているし、同様に、積極的に忘却させられていくのはそう遠いことではない、と思う。その事実が善きにしろ悪しきにしろ。――もちろん、「戦後」の場合は、侵略国日本と善人である(?)日本人を切り離す努力なわけだが。
『ビートルズを知らなかった紅衛兵』(同時代ライブラリー)を読んだ頃私が思ったのは、絶対的な不幸であったけれども、ともすれば逃れられないものを持ち且つ逃れることをしない安穏さに埋没する自由を得る時、そのジレンマを客観視することの出来る自己を発見し、冷めてしまいつつある社会への義憤を不思議に思い、再び、村としての日本と、世界を感じさせる中国小説に出会うのである。
つまりは巡廻するしかない社会と自分の繋がりを見つけ出す。
文革後、自分なりのUターンする表現言語を持たない人は記憶にない鬱積した心情を漠然と感じるのであろうし、それを文章にして表し何が鬱積しているのかに気付かせることは、まさしく「今」の小説に違いない。