書評日記 第489冊
ホリー・ガーデン 江國香織
新潮文庫

 毎日書こうと思ってたらいきなり連休で札幌へ。
 
 札幌の実家では、時間が遅く感じられる。都会とはかくも時間の流れが長いものなのか、と平凡な感想を漏らしてみる。
 寺山修司記念会館→棟方志功記念会館をめぐり、季刊誌「本とコンピュータ」を眺めつつ、12日間、自分の住む東京(渋谷とか阿佐ヶ谷とか)を外側から改めてみる良い機会を得た。
 不思議と焦燥感は消えていて、後は小学生の夏休みの気分だった。
 
 江國香織の本は『きらきらひかる』に次いで2冊め。
 解説でも云う通り江國香織は世間の奇妙な部分にメスを入れる。「奇妙な」という形容詞を使うのは、普通の恋愛小説では出てこない登場人物が出てくる。ただし、奇妙な、の具合はひとそれぞれであるので、真実、この小説が他の恋愛小説とは全く違うという違和感を誰もが感じるとは限らない。
 もちろん、普通の恋愛小説なんて存在しないだろうし、私は普通の恋愛小説を読まない方だから、『ホリー・ガーデン』がどれほど奇妙であるかよくわからない。
 すくなくとも、私にとって、『ホリー・ガーデン』は違和感なく伝わったものがある。それは、こういう小説が読みたい、という読後感とも期待ともいえる、『ホリー・ガーデン』という小説自身に対する賛美である。
 これは、吉本ばなな、山田詠美、江國香織、と似たような(と思っている)作家を並べてみて、彼女らを区別しない私だからだと思う。『アムリタ』にしろ『ジェシーの背骨』にしろ、上野千鶴子(『本とコンピュータ』の円卓では更に闊歩している)の文章とは遠く離れたところにある。家で観た『ナチュラル・ウーマン』(映画も小説も)の松浦理恵子とも違う。そうなれば、マリー・ダリュセックとも違う。
 「恋愛小説」というカテゴリーには入れられるだろうが、小説みずからが其処に入ることはないだろう、ということ。抽象的でややこしいが、このあたり、「読めばわかる」という単純な理由と、物語を書く方が格段に楽だ、という私の諦め(?)がそうさせる。
 そう、物語は作る方が断然らくなのである。
 
 とはいえ、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』を読みつつ、『夢の木の分岐点』ばりの、私自身の夢の世界に介入する文字の流れに、感心してしまう。
 

update: 1999/05/12
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