書評日記 第509冊
文章教室 金井美恵子
河出文庫 ISBN4-309-40575-4
吉本隆明の言葉を借りれば「こんな小説をなぜ今ごろ読まされなければならないのかと、うんざりする」(笙野頼子の『二百回忌』に対して)。
帯から、「微妙に揺らぎ続ける長編小説。推理ドラマよりワクワク、不条理劇よりオロオロ、喜劇映画よりゲラゲラの超エンタテインメント。それだから……困ってしまう!!」解説=三浦俊彦。
まだしも『岸辺のない海』の方がおもしろかったか。何度『文章教室』を読みながら居眠りをしたか。三島由紀夫の『幸福号出帆』ほど良く出来てはいるが、三島由紀夫の『幸福号出帆』ほど興味をそそられない小説であった。私は半分で読むの止めた。
確かに、括弧付きで挿入される各引用文は名文であろうし、名文をあちこちから繋ぎあわせた部分に文学的なゴシップさが漂って面白いだろうと思う。が、それは文學という村だけだろう。日本のゴシップがヨーロッパのゴシップに通じないように、『文章教室』はあまりにも下らない。
そう、名文を繋ぎあわせて小説化しても決して良い文章にはならないのだ、という良い手本を得たような気がする。引用されてる文のひとつひとつを眺めるとかつてあった場所の声が聞えてくるだが、それが金井美恵子の文章の中に挟まってしまうと、そのギャップに頭がくらくらする。そして眠たくなる。物語としての流れも退屈で、通俗小説よりも面白くない。興味を引かない。女性や文壇の人には面白いのだろうか、よくわからない。少なくとも、私はこの作品の読者ではない。
『岸辺のない海』を読んだ時に思ったのは、金井美恵子の文章構成力のすごさである。だが、決してよいストーリーテイラーではないことに気付く。まさしく、『文章教室』は普通に云われるところの物語の体裁を成していない。いや、表面上そうは装っている、が、内面はそうではない。
一瞬、小説そのものへの読解力を失ったかと心配になり、笙野頼子の『居場所さえなかった』の数ページを読む。大丈夫だった。『居場所さえなかった』の方は最初の数ページを読んだだけで面白いと思う。
生理的な拒否反応と云ってしまえば簡単だと思う。構築された文学然とした文章構成や数多い引用文という手法、折り込みのアイデアは、それと聞くだけでも何か面白味を感じさせてくれる。いわゆる、インテリゲンチャ部分を刺激されるのであるが、本質的に「知的な遊び」ができない人なのではないか、と思わせる。哲学の論文を読むよりも興味を失わせるのは何故か? 中身が空虚であるからに違いない。言い過ぎか?
〈人生は短い。もっと有益な本を読みましょう。〉
update: 1999/06/24
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