書評日記 第512冊
毛皮のマリー 寺山修司
角川文庫クラシック ISBN4-04-131509-3

 扉から
 昭和11年青山県生まれ。早稲田大学中退。同42年演劇実験室「天井桟敷」を設立。第一回講演「青森県のせむし男」以後演劇・映画・詩・評論など意欲的に活動。58年敗血症により47歳で死去。
 
 裏表紙から
 著者の下宿の裏通りには娼婦がよく出現していた。その中の54歳の娼婦が実は男だと知り、作った表題作は都内中のゲイバーのママが総出演し、アンダーグランド・カルチャーの仇花となった。“ワイ雑で、野放図で、ぶちこわし型で、その中に人間存在の根元をさがし求めてゆく”やり方は、新劇の啓蒙的近代主義へのアンチ・テーゼとなった。1960年安保逃走を描いた処女戯曲「血は立ったまま眠っている」他、戯曲と同時代のすれちがいを提示しつつ、現代寺山演劇の萌芽を内包する初期傑作戯曲集。
 
 「さらば映画よ」、「アダムとイヴ、私の犯罪学」、「毛皮のマリー」、「血は立ったまま眠っている」、「星の王子さま」
 
 扉と裏表紙の文句を書き移し、目次を眺めているのは、私の中から感動を引き出すためである。「あゝ、荒野」を読んだ時、思わず浸ってしまう静かな感動は、この初期戯曲集においても変わっていない。
 「さらば映画よ」では中年男の性接触の無い性接触的な言葉の遣り取り、「アダムとイヴ、私の犯罪学」では最後に残る次男が象徴的でありつつ林檎にこだわる中年と男と女の死、「毛皮のマリー」ではゲイと美少年と美少女。
 歪んだ美を扱う、と単純に云っていいものかどうか迷う。本当に「歪」という病理的な言葉で片付けて良いものなのか。一般的ではないことであるし、特殊な世界を描こうとして描いたものなのか? いや、描こうとしているのは世の中の「本質」ではないかと思ってしまう。習慣的でステレオタイプで使い古された言葉以外のものを駆使すれば、表面が剥ぎ取られて内面が見えてくるのではないだろうか。
 むろん「啓蒙」という形で表現される一般常識とそれを形作っている現代社会があるのだけれども、それ以外にしかいない者たち、集団が集団であるために存在する排他された(する)者たち、には一体、どのような言葉が「啓蒙」から得られるのだろうか。
 視点を変えることは「異化」という文学技巧ではあるけれども、異化しようとして見るわけではなく、そうでしか見ることのできない現実に対して、寺山修司は常に肉薄せざるを得なかったのではないか、と私は思う。そこでは実験演劇の中にある実験するための目的が明白になっている。多数派の一般に媚びるための実験ではなく、本当の実験、民衆の中に潜まざるを得ない少数派の心を引きずり出すための餌が撒かれているような気がする。いわば、寺山修司を好む世界は決して安泰ではないにせよ、常に闊達であるための遺伝子の導きのように見える。

update: 1999/07/01
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