書評日記 第521冊
ラン・ローラ・ラン トム・ティクヴァ
コムストック=パンドラ

 渋谷のシネマライズで観た。

 ドイツが映画を作ればどことなく哲学的な悲壮さをたたえてざるを得ない欠点を、「ラン・ローラ・ラン」は持っていない。
 
 映画の冒頭で、やや哲学的な文句が出ている以外、思想めいた言葉は出てこない。つまりは、疾駆するローラは「走ることで幸せになるのだ」と思考してみるが、それほど深刻にならない。もちろん、ちょっと足りない――とパンフレットに書かれているので引用しておこう――ローラだからこそ、百万ポンドの金を用意してくれと言われて、一目散に走り出してしまう単純さを示しているのかもしれないが、何かと思考して戸惑い立ち止まいがちな、戦後の若いドイツが併合して以後、再び何よりも先に走り出す、ことを肯定し始めたような気がする。
 
 何よりも、「ラン・ローラ・ラン」がドイツの若者にウけたのは、ドイツの街並みを疾駆することにある。自分の住む街を自分の知っているなじみの街中を、自分がこれから過ごしていく街中を、実に肯定的に「ラン・ローラ・ラン」は描いてくれる。そういう自己弁護イコール自己表現イコール肯定された自分の姿、と思う。
 たとえば、満州国設立とか南京大虐殺を敢行した日本という国が、それに囚われずに映画を作るように、アウシュビッツを意識することなく、ドイツが映画を作る、そういう点で、「ラン・ローラ・ラン」は戦後という枠を抜け出ている。
 
 だから――というわけでもないが――、「ラン・ローラ・ラン」は映画技法的に特に優れている点はない。アニメーションを混在させた予告編を見たが、実際アニメが使われ入る部分は、映画の冒頭部分と、ローラが電話を受けて階段を走り降りる3回しかない。カメラアングルが特殊なわけでもなく、むしろ古風な見下ろしとアップの使い分けは教科書通りと言えなくもない。また、ローラにぶつかった人たちの人生がシャッターショットで映し出されるが、それが映画の主要部分を支えているわけではない。
 かなり後衛的でありつつも、なお――だから、むしろ――「ラン・ローラ・ラン」が一種の魅力を持って元気の素として観ることができるのは、執拗なローラの前向きさが、単純なハッピーエンドを引き起こすからだろう。――不倫をしていた父親はラストで痛い目を見るのであるが。

 さしたるSFアクションがあるわけでもなく、SFXを駆使をしているわけでもなく、制作費ン十億円を掛けているわけでもないが、ちょっとB級くさくて、なおかつ、十分に満足し得る魅力ある映画だと思う。

update: 1999/08/16
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