書評日記 第537冊
劇場で狂言を観ると舞台で観るのと、何が違うのだろうか。
芥川竜之介原作、野村萬斎脚本・演出の「藪の中」を見終わった第一の感想は、演劇畑の役者が行き詰まっているものを突破したのではないか、というものであった。井上ひさしや野田秀樹や惑星ピスタチオと比べると、役者個人の力量――特に人間国宝の茂山千作はそうだろう――に負っている面は否めないが、それでも芝居の中にあるストリー性・異次元性・異世界性には他では見られない際だったものが見られた。
多分、芥川竜之介が自分で舞台を創ったとしたならばこうしたであろう、という舞台は、芥川竜之介の小説の持つ古めかしさ・歴史からの寄与・短編性の特徴がそのまま狂言の持つ歴史と通俗性と庶民的なギャグに通じたもののように思える。舞台装置は狂言の舞台と同じく最小限の道具でまとめられている。藪の内外を表すひとつの垂れ幕と殺された男の頭と着物だけが使われる。おのおのの狂言師(今回は俳優)は違和感のない裃を付けて登場する。なぜか理由があってか当然というのか、黄色い足袋を履いている。――狂言は黄足袋で行われるのだ。これは「藪の中」の舞台が狂言の延長として扱われていることを意識してのことだろう。
ただし、唯一欠点を挙げれば、前半のテンポの良さに比べて後半の場面、殺された男の告白のシーンとか山賊が女を誘うシーンとかは少し退屈さを感じた。これは、前半のシーンが茂山千作・野村万作の熟成された演技であったのに対して、後半は若手の演技であったためかもしれない。これは「藪の中」を支えているものが主に演技者の力量であることの証明なのかもしれない。その点では、一時間三〇分という時間を活かしきっていなかったように思える。
「藪の中」では音楽が一切使われていない。野村万作(と思うが)が詠う声色が幕間に響くだけだ。最小限の小道具と最小限の舞台装置は簡素に表される能楽堂の狂言とそっくりである。だが、他の俳優・脚本家たちが演劇の中に狂言的なものを取り入れるのではなく、狂言師が演劇的要素を取り入れ舞台の上に〈狂言〉という空間を広げていくことに意味がある。そしてその試みは成功している。
私事になるけれど、「饒舌狂言」の試みは間違っていない、と確信した。その点でも非常によかった。
update: 1999/10/27
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