書評日記 第586冊
シュビラの目 フィリップ・K・ディック
早川文庫 ISBN4-15-011313-0

 久し振りにディックの本なぞを読む。そうか、井上ひさしも吉川英治を読んだクチなのか。当時誰もが読んだ吉川英治の剣劇小説。誰もが読んでいる小説を自分も読むという愚行――と若気の至りの人は考える。イコール私自身――を井上ひさしも行っていたらしい。と、「なぜか今となっては司馬遼太郎の小説は読むに耐えない」と柄谷行人が告白するのと同じく、無垢あるいはイノセントあるいは馬鹿な頃には何の本でもよりよく吸収してしまうのだ。私にとってディックの小説がそうなのか、と思って東○○(名を失念)の「郵便的なんとか」を買い込み彼がディックについての評論を書いたことと足し合わせて、何故に今更ディックなのか、というウェッブページを見つけて頷いてみて、再びディックの本を手に取る。
 バラード、ディック、ヴォネガットと並べてみて、アシモフ、クラークは違うSFの形式があり、サイバーパンク、中東を舞台にしたSFを通過儀礼的に通り過ぎ、小松左京、半村良、筒井康隆、安部公房、大江健三郎、とめぐってみて、村上龍、村上春樹と遡り、松浦理恵子、そして、笙野頼子、杉浦日向子、長野まゆみ、と変遷していく。いや、まあ、回顧するわけではないのだが、とりあえずディックを吸収するのだ。

 今更かもしれないがディックのベースはカフカにあると思う。小屋的な劇場空間ということでは安部公房にも似ている。SF空間を科学的に構築したアシモフとは違って、ディックの小説には必ずプレコグ(未来透視の超能力者)が出てくる。いろいろなパターンのプレコグが登場して超能力がキーポイントになる。現実的な惑星間の戦闘戦を描いた他に谷甲州と宇宙を舞台としたバロック劇場を造った田中芳樹、その違いが普通(という云い方もおかしいが)のSF小説とディックの小説の違いにある。同時には成立しない面白さ、あるいはつまらなさがディックには付きまとう。だから一種のカリスマ的な存在――カフカというなもそうだと思うし――としてディックのSFは日本に受け入れられる。
 先進的なトリックとは違うがちょっとしたアイデアは必ず取り込んである。いや二重に折り込まれたどたばた具合はブコウスキーと同じだろう。ヴォネガットにはない瞬発力の面白さ――そういう部分でヴォネガットの小説が大人しく感じることは多い――が彼の魅力だと思う。
 と、力説するわけだが、これは再度ディックを読んで昔と変わらぬ、いや、昔の私は阿呆だったからもう少し突っ込んで読んでいるはずだから、それ以上にディックの小説には弾力があった、ということだろう。だから、優れた文芸作品とかいうわけではなくて、十分私のお気に入りに足る作品・作家である、という話だろう。

update: 2000/08/30
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