書評日記 第588冊
四谷シモン展 四谷シモン
小田急美術館

 小田急美術館に行く。徹夜をして起きていたにも関わらず一篇の小説も出来あがらず床屋へ直行する。髪を切って貰っている間、サザンの曲が流れくる。昨日の夜は暑かったなどと他愛ない天気の話題だけで小一時間が過ぎ頭の天辺は軽くなっている。河合隼雄の「猫だましい」を読み終え、多和田葉子の「ふたくちおとこ」へと続く。「猫だましい」の中で解説される小説の名を口の中で反芻させつつふえふきおとこの物語を読み進める。アーシュラ・ル=グウィン著、村上春樹訳「空飛び猫」は村上春樹訳、という部分に引っかかって読んではいない。寓話、物語、心理学的に価値のある癒しの小説、文学の役目は何処から何処へと移っていったのかを考える。昼に起きたものの食事をせず一杯のコーラだけを頼りにゲームセンターに行きしばらく時間を無駄にしたあと後悔の念と共に小田急美術館の十一階に向かったのは三時過ぎであった。
 
 チケットは大人八百円と意外と安かった。展覧会に並ぶのはさながら西洋の人形館を思わせる。ピンクハウスの服を着た十八前後の女性がいる。異様な感じの異世界に一番似合った二人のような来がした。黒いドレスと白いドレスの二人は三人の少女の人形の前で観ている。
 機械仕掛けの少女はコルセットを嵌めている。が、下半身は剥き出しで性器が出たままになっている。細い割れ目の上には金色の恥毛があしらってある。唯登詩樹の漫画……でもないか、幻想と現実とはざ間というよりも明確な四谷シモンの世界、区切り目という感じがする。少女の顔と少年の顔、キリスト風なナルシズム、最近製作された三人の天使、澁澤龍彦に捧げる天使。澁澤龍彦に捧げる天使を除いてその何れも現実に動き出しそうなリアリズムをたたえている。木の枠で出来ていようと体の半分が歯車と鋼で出てきていようと問題ではない。何かに興味を持って歩く、なによりも彼あるいは彼女自身を見つめる観客を興味深く見詰める好奇心の塊を剥き出してしている。が、澁澤龍彦に捧げる天使だけは異なる。かの天使は澁澤龍彦だけに顔を向け超然として我々に興味を示さない。
 
 ほんとうのところは今更なのだろうが、四谷シモンは舞台俳優だったことを知る。数々のポートレート、パフォーマンスを映した写真、木枠の人形をパテで塗りたくるように厚く塗られた四谷シモンの白い顔は白黒の光りに栄える。唐十郎の脚本で数々の芝居に出演(で)ていたこと、芝居用のポスター、をみていると、寺山修二や澁澤龍彦らが培っていったそして現在も培っているのであろう空間の偉大さに圧倒されてしまう。もっとも、今の私は圧倒されたままでは困るのだが。
 
 ひとだかりが出来ていたのは澁澤龍彦の書いた原稿用紙の前であった。四百字詰めの原稿用紙にはみ出ることなく書かれたそれは彼の美的意識とそれを補うための形式(スタイル)を思い起こさせる。ところどころ修正してある場所はある一定のリズムで書かれたところを補強する推考であって決して第一稿を否定するものではなく最初に紡がれたものに対する彩りのような気がする。多少の傷跡と共に完成した原稿は物事に対峙するときの畏れと的確な視点をわれわれに饗してくれる。
 
 夜中に「サザン床屋」を書く。十五枚ほどの短篇を書き読みなおした。多少緩みがあると感じる。厳しさ、執着心、流さない言葉と瞬発力に支えられて排出される作品は、まぎれもなく自分の分身である。同時に滓でもある。

update: 2000/09/05
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