アタゴオルは猫の森 ますむら・ひろし
メディアファクトリー ISBN4-88991-1765-9
ますむら・ひろし――いつの間にか「・」がついている!――と宮沢賢治とは切っても切り離せない。宮沢賢治は猫嫌いか否か論争から銀河鉄道の夜を猫でアニメ映画化させて現在の地位(?)を得るまでにますむら・ひろしは至った。
人生を賭けてひとつのテーマを追う。いろいろやりたいことがあっていろいろな分野で認められたいと思いつつも念願叶うのはひとつのことだけかもしれない。
だが、最近はお笑いタレントやテレビの俳優が小説を書くだけでなく映画を撮ったりする。ビートたけしだけではなく機会を与えられその機会を生かして別な分野へと足を伸ばしていく。
彼らが恵まれているのか、それとも彼等が恵まれているように私が妄想しているだけなのか、私自身よりも一歩も二歩も先を行き――比べること自体がなんとも傲慢なことなのだけれど――自分が取り残されているような不遇な気分に陥ってしまう。
しかし、ほんとうの他人と共感できるものは極めて少なく巷に溢れ返る小説を読んだとしても渋い顔をして思わず能書きを垂れてしまう自分が存在(い)て、どこからどこまでの分野が一瞬よりも長く心に留まる共有した感情を得られるのかとそのたびに私は思う。
ベストセラー、話題の小説、話題の映画、著名な作家、賞を取った作家の小説に触れるたびに違う感じがし、同時に細かい違いでしか表せない自分を歯痒く思い、どっぷりと画一化に浸ってしまったほうがどれほど楽なのだろうかと在りもしない〈普通〉に惹かれてみたりする。
ただ、時折、ますむらひろしの「アタゴオル」の漫画を読むと、星煌き大きな木々と鉱物の世界に巣回っている猫と人間たちの物語は、現実に存在するますむらひろしが見た風景の忠実な情景描写にになっている気がする。そこに含まれる決め科白の数々に多少なりとも強引な意図を苦笑しながら感じつつも、夜更けに幾度となく読み耽ってしまうのは、彼の自由さに私も憧れ強く同意する風景を共有しているからではないか、と夢想する。
ひどく直接的に描かれるヒデヨシの欲望は明るく、ヨネザアドの森にしかマッチせず、こちらの現実世界とは大きな溝があるような大人の分別を引き出したくはなるけれど、ひとコマひとコマに丹念に描かれる木の鱗や葉脈や水の輝きや透き通った森の風景に魅入っていると、ますむらひろしが現実世界で見た窓の外の風景がそのまま私に伝わってくるような気がして、まさしくそれが現実であると確信し(たいと強く願い)つつ、濃密な繋がりは本当にあるのだと心揺れてしまうのである。
これが系譜というものだろう、と「アタゴオル余波」を読んで思う。