書評日記 第614冊
鮫肌男と桃尻女 望月峰太郎
講談社 ISBN4-06-334016-3
初出が九三年。映画化が九九年。
時々、望月峰太郎と畑中純がごっちゃになるのは大学時代に教えて貰った漫画家という共通点もあるけれど、「バタアシ金魚」や「まんだら屋の良太」が当時はあまり知られていなくて――少なくとも私を含めた一般的な漫画読みには――どこか特殊性を秘めた人たちがその特殊な思い入れのままに薦めて、というか「読んで」いて、そしていま巷に特殊なまま受け入れられている漫画家、という経緯を踏んでいるからだと思う。
十年前にアニメブームが最高潮に達してほとんどの漫画がアニメ絵になってしまった時に、望月峰太郎や畑中純の絵柄は異様であった。もちろん、私自身、アニメ絵に反発してみて平田弘史(これも教わった漫画家だけど)の真似をしていた頃もあったものの、一方で細野不二彦や竹内直子、高河ゆんを真似したりと、正統(?)を追っていた時期もあり、私はあまり頭を使っていなかった。
早熟でもなくただレールに乗ることがうまかったものの飛び抜けて迎合に適しているわけでもなく、中間よりもやや上に位置するだけの不安定な場所にいることを意識し始めたころから、いわゆる直線上には乗らない〈異端〉に憧れ先天的に持っている(と思われる)現実に対する感覚の違いを私は意図的に模倣しようとしたのだが、それは失敗に終わった。つまり、望月峰太郎と畑中純という漫画家と作品、そしてその作品を私に教えた二人と私の感覚の違いは、絶対的だったのか相対的だったのかに関係なく、〈漫画〉という分野において私は観客の位置に身を置くことに二十四才のころ決めた。
だから、望月峰太郎の名は、常に引っかかっていて「鮫肌男と桃尻女」というタイトルに惹かれつつも一種の羨望と嫉妬を込めて買わず読まずにいたのは、構成されたストーリーではなく、生身の感覚、漫画そのものの剥き出しの感触を描くことに対して、なんらかの言葉で表すことは無駄なことで、あるいは映画のように読み解釈し組み直し新たに別に作品を起こすようなことをしない限り無意味ではないかと思い、ただ漠然と読み下すには惜しい作品・作家ではないか、と想像していたからに過ぎない。
果たして、ひとつのジャンル付けで云えば「バイオレンス」なのだが、ブコウスキーの「パルプ」、映画の「パルプ・フィクション」、フランク・ザッパの「200 MOTELS」のように、共通の興味ある分野に作者とともに溺れ込む、作品だと思う。
美しいセクシャルティ、眼鏡取れば美人、タフな男、変態の叔父、猟犬のようなヤクザと部下、きつい年増女、拳銃を乱射しカーチェイスをして林の中を走る、という仁侠映画に近い高テンションな感情移入を許してくれる漫画は、極めて珍しいし、非常にうまくいっていると思う。もちろん、私が知らないだけかもしれないが。
現実の映し身でもなく単なる幻想でもない。こうありたいという欲望のままに突き進む迫力は望月峰太郎ならではのところだろう。
update: 2001/03/21
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