書評日記 第621冊
砂の本 ボルヘス
集英社文庫 ISBN4-08-760240-0
ボルヘスの小説は本を中心にして物語が巡回している。架空の本に対する書評集、現実には無いがあるかのように現実に接点を持っている世界会議、数学的な無限大をあらわす砂の本。
たいていの小説=フィクションは架空の登場人物が現実的な世界の法則に従って物語を展開させる。現実にある地名を使うこともあるし、現実に使われている道具や史実を扱うこともある。SFであれば架空の理論を使うこともあるが近未来という基準を外れずに話を進めることが多い。
ただ、何故ノン・フィクションではなくてフィクションにするのか、小説にするのか、物語を創造していくのかという理由は、作者の頭の中で形作られた現実を文字に書き落とすことでより瞬時的な感情の共有を読者と得ようとする作業、という点では同じものを目指していると思う。
ボルヘスの小説からは共感の部分を直接刺激するようなものを感じる。いまの私にははっきりとは言えないし、今後も明快な言葉で――特に「文学」的用語を駆使して――言うことはできないかもしれないが、カフカのように孤独ではないものの、カート・ヴォネガットのように物語としての道具を弄ぶ楽しみを示してくれはしないものの、ヘッセのように時間の流れを追う物語形式を呈していないものの、それらが一緒くたになったときの原石を眺めるような気分になる。
後半にある「汚辱の世界史」は澁澤龍彦か寺山修司を思わせる。事実と散文の組み合わせは歴史の中にある断片と文学的な技法をあわせ持ち、そこにボルヘス自身の興味と油の乗ったペンの動きとが組み合わさったところで初めて出てくる作品と思える。気負いとか臆病さとか自嘲とか尊大さが十分抜けきった、あるいはそれらを十分に知り尽くし味わった後にでてくるものである。
文学技法というものは確実に存在する。何かを書くときに作者の熱意とかバックグラウンドとか意欲とは正反対にある静的な「形式美」というものがある。物語というものが数百年来書きつづけられて進化してきた末端にある学術的な技法は学び模倣するとこによって得られる。むろん、模倣だけではだめで身につき血肉になり消化された時点で自分の文体として吐き出すことができる。
一体化されたものとして「砂の本」はボルヘスの著作であり、ボルヘス自身は「砂の本」へと分身化する。その形の変幻自在さと出てくるものが様々に変化する経過がボルヘスの著作のおもしろさだと私には思える。
蛇足だが、晩年のボルヘスは目が不自由だった。だから、目に見えないものに対しての描写が優れているのか、とも思ったりする。
update: 2001/03/31
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